頑張る・頑張らないの続き

頑張りすぎて余裕がなくなってしまった人間に接するのは難しい.頑張れと言っても,相手にとってそれはエールというよりは「努力不足だ」という責めの言葉に聞こえてしまう.いいから休めと言ったところで,相手にとっては何もしていない状態ほど不安なものもないのだ.頑張っても駄目,休んでも駄目.こういうところから欝は始まる.

ある状況において,にっちもさっちも行かなくなってしまう,というのは実は「今まで自分が原則としてきた生き方が間違っている」ということなのだが,結局そのことに気付くか否か,或いは気付かせてくれるような人が身近に居るか居ないかによる.

しかし,鬱になった人間に対してどのように接するか,というのもまた困難な問題である.

欝の人を責めてはいけない.既に十分過ぎるほど自分で自分を責めているからだ.そもそも自責の念がなかったら欝になどならないし,精神的に参ってしまった自分のことを,他人もまた弱い人間だと軽蔑していると思ってしまいがちだからだ.そこへ「情けないぞ」なんて言われたら,抱えている不安に決定的な証拠を与えてしまう.

励ましても,同情してもいけない.「気にするな」とか「大したことないよ」とか言ったって,本当に大したがないならそもそも苦しまないし,ヘタをすると「詰まらないことを気にしてしまう詰まらない自分」という自己嫌悪のイメージを強化してしまいかねない.また「私にとっては大問題なのに,詰まらないなんて言うな」と信用を失うことになるかも知れない.
「大丈夫だよ」とか「何とかなるさ」とかいう言葉も,「君にそう言われると本当に大丈夫な気がする」くらい相手に信用されてる前提がないと効果がないだろう.そうでなければ「何も分かってくれない」と思われるのがオチである.ヘタな善意は,却って悪い結果を呼んでしまう.

だからニーチェは「同情の禁止」を叫んだ.窮地に立たされている相手に対して自分が何もしてやれない,そういう無力感をカモフラージュするために巧妙に仕組まれた心理が同情というものなのだ,と.
そう,誰かが横で苦しんでいるとき,本当に相手のために何かをしたいと考えているのか,単に自分が何も出来ないことに自尊心が傷ついているだけなのか,という区別には注意しなくてはいけない.前者なら鬱についてネットや本を調べることから始めるだろうが,後者のケースこそ安易に励ましてしまう.それくらいなら,一切関わらない方が余程マシなのである.

ユリウス=カエサルも言っている.

「かつて悪しき結末を引き起こした行動のうち殆どのものが,良心から出たものであった.」

自分の良心や善意や正義について,ただそれが「自分が正しいと信じている」というだけの理由で,正当化することは慎んだ方がいいだろう.

多分まだ続く.