自由に耐えられぬ奴隷

カラマーゾフの兄弟で,イワンが語る「大審問官」.この叙事詩の中で,大審問官はキリストに憤然と問うのだ.お前は「人はパンのみに生くるにあらず」と言って,人間に精神の自由をもたらそうとした.だがお前は知っているのか,世の中の大多数の人間が自由になど耐えられないということを.お前は自由に生きる者に対して天上のパンを約束したが,お前の説くような至高の精神を持ちうるのはほんの僅かな者たちだけだ.しかしお前に選ばれなかった大多数の者たちに対して,お前は一体何を約束してやれるのか.
奴らに自由を与えてみるがいい.最初こそ狂喜するに違いないだろうが,翌日には跪いてそれを差し出してくるだろう.しかも,奴らが跪く対象は,バラバラであってはダメなのだ,全員が,みんな揃って跪けるような対象をこそ捜し求めているのだ...

ざっと記憶だけで適当に書いてしまったのだが,今回改めて新訳を読むまでは,この大審問官の問いかけに意味を,人は自分の意思によって自らの行動を決定するよりも,強大な力に服従して支配されることを好む,という意味に受け取っていた.神でなければ国家,というような.
だが太字にした部分を読んだときに,ふと思ったんである.例えば他人に対して批判的なことをあまり言わないという態度を嫌い,ズバズバ言う人がいる.ハッキリ言うだけだったら良いのだが,こういう人は大抵の場合,はっきり言わない人のことを激しく罵倒する.こういうのはしかし,批判的なことでもハッキリ言うべきだという「原則」に対して「既に跪いてしまっている」んじゃないのか.そしてその「原則」に従わない人を痛罵するというのは,その原則にそれこそ「皆揃って跪く」ことを望んでいるということではないのか.

これは恐ろしい.こんな些細なことでさえ,人は自由になれず,むしろ隷属していることになるからだ.努力が大切,遅刻はするな,人に迷惑をかけるな,感謝の気持ちを忘れるな,相手には思いやりを持て・・・そういう原則を口にした瞬間,それは他人にもその原則に跪くことを求めることになり,自らの奴隷性を表明することになってしまう.何という恐ろしい問であろうか.

では大審問官的な意味での自由な人間とはどういう人間のことを言うのか.そもそもそんな人間は存在しうるのか.

続きは次回,気が向いたときに.