言葉と思考と

以前にマコトが書いてたことに突っ込み損ねて放置していたんだが,昨日別の知人が似たようなことを書いていたので,改めて書いてみる気になった.
彼らの考えは「そもそも人間の思考というのは言葉ありきではないはずだ」ということである.考えていることがまず先にあって,言葉を使う,というのはその考えを言葉に置き換えていくという行為なのだと.

これはしかし残念ながら,18世紀くらいまでの西洋の考え方である.少なくとも哲学的には.

言葉の機能というのは,実はあるものを直接名指すことではない.ある集合と別の集合との間に境界線を引いたり,共通項を繋いで同じカテゴリーに括り込んだりすることである.音を入力するものは「マイク」だし,出力するものは「スピーカー」,でもどちらも音響に関するものなので「オーディオ」...といった感じである.これはどういうことかと言えば,僕らの周囲を構成している世界の中から,特定の価値のあるものを,それ以外のものから切り出しているのである.堅くて武器になったり,ピカピカ光る財宝としての価値があるから金属はそれ以外のものから区別され,その中でも「鉄」や「黄金」は特に価値の高いものとして更に他の金属から区別されるわけだね.逆に言えば,価値のないものには名前は付かない.そこらへんに生えている草も実に多種多様で,それぞれに種名があるんだけども,大抵の人にとっては「草」でしかなく,個々の名前は意味を持たない.そういった名前が意味を持つのは,特定の職業や趣味や生活様式を持った人にとってだけなのだ.
そういった意味で,ソシュールは「言語とは価値体系だ」と言ったわけである.この言葉には半端ない破壊力があった.つまり,言語というのは,その集団や民族にとっての「価値あるもの」と「それ以外の無価値なもの」を分けていくことによって形成されたものであると.ということは,僕らは言語というものを身に付けた瞬間,既存の価値体系に強制的に従属させられるということになってしまうのだ.

僕らは自分の価値観を言葉で表現していると思いがちだ.だが現実は真逆で,僕たちの価値観は言葉によって既に決定付けられてしまっているのである.

言葉にはもう一つの特徴がある.それは「繋がりを求める」ということだ.たとえば「昨日」という一単語だけではどうしても居心地が悪い.昨日どこで誰が何をしたんだよ,という方向に,思考は勝手にドライブしてしまう.他にも「緑」という単語を見て,頭に浮かぶのは単なる緑色だけではないだろう.草木,森林,自然,環境・・・そういう風に,僕らの思考は言葉から勝手に連想を膨らませてしまう.何かの話題について話していたら,いつの間にか全然別の話で盛り上がっていて,「そーいや元々何の話だったっけ?」となってしまうことはよくあるはずだ.或いは,ちょっとした言葉や言葉遣いが引っかかってしまって,一日中思い悩んだことのある人もいるだろう.要するに,僕らは言葉が勝手に連鎖・連環を拡げていくことを,自分の意思によってコントロールすることが出来ないのだ.

僕らは「言葉で考えている」のではない.「言葉によって考えさせられている」のだ.だからこそ,言語の獲得によって人間の思考力・想像力は大幅に拡大したのである.