生きることの意味

知人の近しい人が若くして亡くなってしまったらしい.
僕にも似たような経験が結構あって,15のときに親父が死に,21のときに親友の一人が交通事故であっさり死に,22のときに学習塾で教えていた生徒が電車に飛び込み,26のとき,修士のときに厄介になっていた研究所で同室だった研究員さんが事故死し,27のときにルームメイトが部屋の中で首を吊り,また塾の元教え子が踏切で跳ね飛ばされ...と,振り返ってみたら,自分で思ってた以上に多いな...

いつも訃報を聞く度に,僕の頭の中で何かがぐるぐると回り始める.何度も,何度も,ほとんど同じことばかりが.

僕らは,普段周囲の「生きている人」については,あまり深く考えない.その一挙手一投足にいちいち意味があるとも思わない.だが,その「誰か」がこの世の人でなくなったとき,僕らはその人の生き方だったり,何気なく言った一言だったりを,初めてありありと思い出す.あのときの言葉はそういう意味だったのかと,初めて思い至ることも多いはずだ.また残された者同士で故人について語り合ううち,思いも寄らなかった彼/彼女の一面を知ったりする.そして何故あのときこうしておかなかったのかとか,言ってくれてたら何とかしてあげられたかも知れないのにとか,そういった悔恨の念を消し去ることは難しい.そしてもう一つ,どうしても避けられない問いが襲ってくる.

どうせ死ぬのに,人は何のために生きているのか,と.

人生の意味は生きている間が全てであって,死んでしまっては何もかもが無意味だと,そう考えている人は多いと思う.だが僕は思う.ある人が生きたことの意味は,死によって終わりを迎えるどころか,死ぬことによって初めて生まれてくることもあるのだと.

先に,僕らは誰かが死んだとき,初めてその人が生きてきた一コマ一コマに目を向けると書いた.つまりそのような状態にあるとき,死者は,彼/彼女が生きていたときとは比べ物にならないほど,僕らに深く関わってきていると言えると思う.そうやって(生前の)死者の生き様を何度も何度も思い起こすうちに,僕らは時間とともにそれを消化していき,遺志を継ごうと思い立つこともあれば,死者と同じ境遇の人がいたら手を差し伸べようと決意することもある.つまり,残された者は,他ならぬ死者による決定的な影響によって,新しい生き方を獲得するのだ.僕らはそれを端的に「死を乗り越える」と呼んだりすることもあるのだろうが,それこそが死者が「生きたことの意味」であり,同時に「死を迎えたことの意味」となるのだと思っている.

そしてそのように考えた場合,僕ら自身が死者となったとき,「僕らの『死』がどのような意味を持つのか」は,「僕らがどのように『生きた』か」に100%依存することになる.そして,「どうすれば意味のある死を迎えられるような人生を生きられるか」を考えてみることも,決して無意味ではないだろう.