「このまま」から「そのまま」へ

帰国中に風邪で39度近い熱を出したとき,僕は彼女と秦野の母の家を訪れていたわけだが,診療所に行くときに母の旦那が運転してくれることになり,また母と彼女も付いてくることになった.つまり,閉診間近の夜の町の診療所に,一家4人連れがゾロゾロと入ることになってしまった.待合で一人座っていた中年の女性は,当然の如く奇異の目で僕らを見ていたし,僕自身このシチュエーションに「どこのお坊ちゃまやねん」と心の中で密かにツッコミを入れざるを得なかったわけだが,しかしそれを口にする元気もまたなかったわけで.
 でも一方で,「愛されてるなー,オレ」と,妙に暖かい気分を感じている自分もいて,そのことに自分ながら驚いたわけである.なぜなら,少なくとも以前の僕は,こういう時に誰かに付き添われるのを喜ばない人間だったからだ.
 そんなわけで,年齢と共に本当に変わっていくんだな,とつくづく思ったのである.別に昔からこういう人間になろうと思ってきたわけじゃないし,こんな人間になりたいと思ったことがあるわけでもない.ただ,気づいたら今のような自分がここにあって,そしてそのことに対して別に悪い気もしない.というよりもむしろ,昔はあれほど嫌っていた状況に対して,今は幸福を感じることが出来るのだから喜ばしいくらいだ.
 で,思ったんである.こんな風に変化を繰り返していけば...というよりも,変化が積み重なっていけば...何の抵抗もなく自らの死を受け容れられる境地に達するのではないだろうかと.今はそんな境地に達したいわけでもないし,むしろその逆で,とにかく生きていたいと思う.でも多分,ある日ふと気づいた時には,そんな自分がそこにいるのだろう.
 そして連鎖的にラッセルの言葉が頭に浮かんでくる.

個人的人間存在は,河のようなものであろう.最初は小さく,狭い溝の間を流れ,勢いを増して断崖をよぎり,滝を越えて進む.しかし次第に河幅は広がってゆき,土手は後退して水は静かに流れるようになる.そしていつの間にか海の中へと没入して,苦痛もなくその個人的存在を失う.
 老年になってこのように人生を見られる人は,彼が気に掛け,育んできた事物が存在し続けるが故に,死の恐怖に苦しんだりはしないだろう.そして生命力の減退とともに物憂さが増すならば,休息の考えは退けるべきものではないであろう.私は,自分には最早出来ないことを他人がやりつつあるのを知り,可能な限りのことはやったという考えに満足して,仕事をしながら死にたいものである.