命日

今日は予備校時代の友人の命日だ.生きていれば35になるが,彼の時間は24年ちょうどのところで止まったままだ.何せ,24度目の誕生日に死んだのだから.

当時,まだ若さに任せた生命力を謳歌していた僕にとって,友人の死は衝撃だった.あれから11年が経ったのかと思うと,それだけで不思議な気分にさえなる.

彼の両親は元気にしているだろうか,そう思って彼の実家に電話をした.電話に出た彼の母は,いつものように,「もう連絡をくれるのは健くんだけや」と言った.

彼の一回忌のとき,予備校時代に仲の良かったメンバーのほぼ全員が彼の実家に集まった.その後もしばらくは,夏休みや冬休みに友人たちはそれぞれに彼を訪ねていた.
「みんなが来てくれると賑やかになって嬉しいわ」と彼の両親はいつも喜んで迎えてくれたものだったが,しかし,それも3年もするとほとんど来なくなった.当たり前だが,僕らはどんどん彼のことを思い出さなくなってしまったからだ.

しかし彼の母は,息子の遺骨をまだ墓に入れていない.自分が死ぬまでは傍に置いておくのだと言って,毎日,彼の分の食事まで作っている.要するに,彼の両親は,彼のことを片時も忘れることはない.

この忘却の速度の違いについて,僕は考えてしまったのだった.彼の友人たちが疎遠になっていくこの事態は,彼の母にとっては残酷な現実として突き刺さっているんじゃないだろうか,と.

そう思って以来,僕は彼の実家との交流を絶やすことが出来なくなった.実際,電話をしたり訪ねたりするだけで本当に喜んでもらえた.渡米していた間も,一時帰国の際に連絡するようにした.そんな風にして11年が過ぎたわけだ.

が,今回の電話で話す彼の母の声は,いつもより明るかった.いつも明るく話す人だが,それ以上に明るかった.聞けば,彼の弟が最近結婚したのだと言う.このお嫁さんが本当にいい人だとか,彼の友人たちが開いてくれたサプライズパーティーの写真が送られてきたんだけどもこれが本当に素敵なんだとか,そういう話を本当に嬉しそうに話す彼の母の声を聞いて,僕は胸が熱くなってしまった.間違いなく,今電話の向こう側には,大きな幸福があった.

「もう自分の人生なんて終わりだ」と思わせるほどの大きな不幸であっても,人はそれを乗り越えることができるものだ.大切なことは,どんな不幸な状態にも,必ず終わりがあることを知り,それを自らに言い聞かせることだ.それができれば,必要以上に落ち込むことはなく,必要以上に生きる気力が奪われることもなくなるだろう...というようなことを言ったのはラッセルだったと思うが,今日はまさにそれを実感した日となった.