送り火の日、だよな

今日の京都は五山の送り火だったはず。4年前の夏、渡米したばかりの僕は、今の嫁に下のようなメールを送って、そしていつか一緒に送り火を見よう、と約束したのだった。

毎年送り火の日に,大学の研究室では飲み会を開いていた.確かに農学部の新棟からは,大文字と妙法がよく見えた.
でも,いつも思う.あの火を,騒ぐネタにしていいんだろうかと。酒を飲んで,あっちの方がよく見えるぞ,いや,こっちだと言っては騒いでいる、そういう雰囲気に僕は抵抗があって(いつもは自分がいちばん騒がしいクセに),点火されてからはいつも皆から離れて眺めていた.

送り火の起源は,平安時代とも江戸時代とも言われる.いずれにせよ,何百年も続いているものだ.それも,京都を囲む5つの山(一時期は十山だったらしいが)で同時に行われる,一大スペクタクルだ.今の時代,もっと派手で大規模なスペクタクルは幾らでも存在するかも知れない.でも,数百年後も変わらず続いているであろうものは,どこにも見当たらない.信仰を失った僕らは、そんな想像力なんて持ち合わせていないから.

送り火は,文字通り「送る火」だ.8月14日に帰ってきた死者の魂を,再び死者の世界に送り返す道しるべとしての,灯火.僕は魂の存在を信じているわけではないけれど,今日もこうして変わらず大の字に火が灯るのは,宗教の力…と言って悪ければ,信じるということが生み出した,時代をも超える力のゆえに,なのだ.

僕は炎を眺める.魂は信じていなくとも,「送り火」という存在そのものが,僕に死者を思わせる.父のことや、友のことや、祖父母やもっと先に生きた人たちのことを.そしてもう少し遠くへ、思いを馳せてみる。本当に魂が存在すると信じていた時代の人々は,この火に,何を思っただろうか、と.

火は,ゆっくりと消えていく.火が燃え尽きたとき,それは,死者の魂が完全に旅立ってしまったことを意味しただろう.それは人々に何を感じさせただろうか.世の無常を思っただろうか.或いは、今、生きていることの有り難さを?

今度送り火を見るときは、二人で。毎年ずっとそう言ってきたんだけど、その約束を、今年も果たせずに終わってしまった。いや、正直に言うと、この夏は嫁がつくばに来てくれるって聞いた時点で舞い上がって約束のことを忘れてしまっていた。嫁も忘れてたし。。。おお、何というアウチ。

来年は多分まだ嫁はアメリカにいるだろうしなぁ。。。再来年か。