その言葉が、遅すぎる言葉になる前に

先日紹介した映画「ウェイクアップ!ネッド」が日本で公開されたのは、Tが死んで間もない頃だった。

映画公開後の最初の週末に、映画なんてほとんど見ていなかった自分が、ミニシアターにまで足を運ぶようになったのはTの影響だよなと思いながら、僕は京都河原町の朝日会館に向かった。今は、そのミニシアターも無くなってしまったけど。

映画は猛烈に可笑しくて、観客は僕も含めてみんな腹を抱えて笑っていた。でもそれだけだったら、単なる「今まででいちばん笑える映画」で終わるところだったんだけど。この映画には葬式のシーンがあって、そこで主人公のジャッキーが死者へ捧げるものとして行ったスピーチに、僕は胸を貫かれる思いがした。

“Michael O'Sullivan was my great friend, but I don’t ever remember telling him that.“
(マイケルは偉大な友人だった。しかし、私はそれを彼に伝えたことはなかった。)

自分のことを言われた気がした。そう、僕はTに、お前は大事な友達だと伝えたことがなかった。
そしてその次に述べられた台詞が、僕の心に突き刺さった。

The words that are spoken at a funeral are spoken too late for the man that is dead.
(葬式で述べられる賛辞は、死者にとっては遅すぎる)

What a wonderful thing it would be to visit your own funeral.
(もし自分の葬式に出席することが出来たら、どんなに素晴らしいことだろう)

To sit at the front and hear what was said..
(最前列に座って、自分に向けられた言葉に耳を傾けることが出来たなら・・・)

Tの通夜のあと、僕らは一晩中Tとの思い出を語り合っていた。僕らの中で、Tがどれだけ大きな存在であったのかを。だけど当然、それはTには伝わらなかった。そして、もう、絶対に伝えることができないのだ。あのとき僕らが口にしていた言葉は、文字通り、遅すぎたのだ。

だが、僕らは心の中で抱いている友人・知人への敬意を、本人に直接伝えようとは、あまりしない。むしろ、照れ隠しの憎まれ口の方が多くなってしまいがちだ。おまけに、この国では、「わざわざ言わなくても分かるよね?」というのが一つの美徳となっていたりするので、余計にそうなってしまう。「言葉じゃ伝えられないこともある」って言葉も、そこかしこで囁かれる。

けれども、僕は敢えて言いたい。
「世の中には、言葉じゃなきゃ伝えられないことの方が、圧倒的に多いんじゃないのか」と。

確かに、葬送の場で、生き残った者たちが死者について話し、お互いにどれだけ大きなものを失ったのかを確認し合うのは大切なことだろう。けれども、その場で交わされる一言ひとことを、もし本人が生きているうちに聞かせることができたなら、それはやっぱり、映画でジャッキーが言った通り、素晴らしいことなんじゃないだろうか。

普段、会話をしているときに、僕はフツーじゃ恥ずかしくて言えないようなことを平気で言ってのけたりするので、驚く人も多いと思う。女を口説いてるようにしか聞こえないかも知れない。でも、そういう僕の言動には、いちおう、上記のような理由があるのだ。

この経験から、僕は一つの信念を抱くようになって、それはつまり、「伝えたいことを、伝えるために、いちばん伝わりやすい形で、言葉にする」ってことなんだよね。まだまだ、完璧にできてるとは言えないけど。