若き日のバイブル

ラッセルの幸福論って、翻訳が拙いのが残念なんだよなー。英文和訳問題集の解答かよ、と思ってしまうような文章が結構ある。ので、適当に改変しつつ引用する。

今日のテーマは罪悪感。

罪悪感は無意識の中に根を下ろしているため、ある種の行為には具体的な理由を知らないまま「罪」のレッテルが貼られている。したがって、人はそのような行為を行った際に、不愉快な気持ちになるが、どうして不愉快なのかを説明することはできない。彼は、その罪(だと信じていること)を控えられるような人間であればいい、と思っている。彼が称賛するのは立派な人々のみであり、また悔恨の気持ちをもって、自分がそのような立派な人間に値しないことを認める。その結果、彼は罪の意識を引きずって一生を送るのである。
 こうした罪悪感の原因は、ほとんどが幼少期に受けた道徳教育である。彼は、汚い言葉を使うな、決して嘘をついてはいけない、などと教えられた。両親に可愛がってもらうことは彼にとって人生最大の喜びであったが、それは道徳の規範に従った場合にのみ与えられた。そこで彼は、両親に非難されそうな振舞いを、漠然と恐ろしいものへと結びつけて考えるようになった。成長するにつれ、自分の道徳規範がどこから来たものかを、彼は忘れていった。しかし、その道徳律を捨てることはなかったし、それを犯せば何か恐ろしい事態が降りかかって来る、と考えることも放棄しなかった。
・・・ところで、こうした幼年期の道徳の大部分は全く合理的根拠のないものであり、普段の生活に当てはめることはできない。「汚い言葉」を使うひとは、合理的見地からすれば、「きれいな言葉」を使う人よりも悪人であるとは決して言えない。にもかかわらず、ほとんど全ての人が、「聖人」を、汚い言葉を慎む人物として思い描くだろう。理性的に考えれば、これは全く馬鹿げている。

特にコメントいらんよなぁ。笑 とりあえず明日に続く。