ラッセルの幸福論・罪悪感2

罪悪感は、人を不幸にし、劣等感を抱かせ、人間関係において幸福を楽しむことができなくなる。彼は総じて感じの悪い人物となり、ますます孤独となっていく。他人に対して寛大で朗らかな態度を取れば、それは他人を幸福にするだけでなく、本人にとっても限りない幸福の源となる。しかしそれは、罪悪感につきまとわれている人間には、不可能である。このような態度には、意識と無意識が調和していることが不可欠である。逆に、内部が分裂している人間ほど、幸福を減少させてしまうものはない。
・・・そこで私が勧めたいのは、自らが理性的に信じることについては断固たる決意をもって臨み、たとえ束の間であっても不合理な信念に支配されたりしてはならない、ということである。
 多くの人は、どこかで合理性を嫌っており、理性を存分に働かせると、深い情緒が押し殺されてしまうと考えている。そのような疑念は、しかし、理性の働きをまるきり誤解しているために生じる。情緒を生み出すことは、理性の仕事ではない。そして、憎悪や嫉妬など、幸福の障害になるような感情を最小限に抑える方法を発見することは、間違いなく理性の作用である。しかし情熱的な愛、親としての愛情、友情、慈悲心、科学や芸術への献身などの中には、理性が奪い去りたいと思うようなものは何一つ存在しない。理性的な人は、これらの感情や情熱のいずれかまたは全てを感じるときには、それを喜びとし、またそうした感情を抑制するようなことは何も行わないであろう。なぜなら、これらの感情は、良き人生、すなわち自分と他人の双方の幸福にしてくれるからだ。
・・・合理性は内部の調和から成り立つものである以上、これを達成した人は、内面の葛藤によって絶えず邪魔されている人よりも、世界の見方においてもエネルギーの使い方においても、いっそう自由である。自分の殻に閉じこもることほどつまらないことはないし、注意力とエネルギーを外に向けることほど、気分を引き立ててくれるものはないのだ。

昔の僕が、この文章を読みながら見直し始めた価値観は、「親孝行はしなくてはならない」ということだった、ということを今思い出した。
・・・って言うと、かなり誤解を生じるだろうな。僕には昔、研究のために母親を置き去りにし、孤独に陥れたと思わざるを得ない事態に直面したことがあって、その罪悪感から実験が手に付かなくなってしまったことがあったのでした。ラッセルの言葉は、そんな僕に再び自由を与えてくれたのだった。