ラッセルの幸福論「あきらめ2」

一部の人は、ちょっとしたトラブルでさえ我慢することができないが、その小さなトラブルが積み重なるうちに、やがて生活の大きな部分を占めるに至ってしまう。
 彼らは、列車が遅れれば腹を立て、料理人が不味ければ文句を言い、煙突がくすぶれば絶望に沈み、クリーニングに出した衣類が戻ってこなければ産業界全体に復讐を誓う。こうした人々が浪費しているエネルギーは、帝国を幾つも作ったり滅ぼしたりするに足りるものであろう。
 賢明な人は、それらのトラブルなどは見て見ぬふりをする。何の措置も講じない、というのではない。ただ、こうした事象には感情を交えずに処理するのである。
・・・心配の帝国から解放された人は、絶えずいらいらしていた頃よりも生活が格段に楽しくなっているのを発見するだろう。知り合いの奇癖も、悲鳴を上げたくなるほど嫌だったのに、微笑ましいものに思えてくる。今、隣の老人がいつもと同じ話をし始め、それをあなたが耳にするのは今回が347回目であったとしても、その回数に可笑しくなるだけで、話を逸らす試みをしようという気も起こらなくなる。
・・・察するところ、多くの人はみなそれぞれに一枚の自画像を持っていて、何であれこの自画像をスポイルされると感じるような出来事が生じると、腹を立てるらしい。このような事態から脱するには、画廊をそっくり所有しておいて、問題の事件に相応しい画像を選び出すことだ。そういった肖像画の何枚かが滑稽なものであれば、なお良いだろう。
 四六時中、崇高な悲劇の主人公を気取るのは、賢明ではない。私は別に、いつも自分のことを喜劇の道化役として見ろと言っているのではない。道化を気取っている連中は、むしろ腹立たしい存在だからだ。

「自画像は沢山持っておけ」というのは至高の忠告ではなかろうかと思う。「理想の自分」を定めてみたところで、それに縛られてしまった自分の姿が、自分の「理想」だなんて、そんなバカな話はないよねえ。