高麗の支配体制の動揺.11世紀以降,門閥官僚の最大派閥である李氏一門は政府高官の地位を独占し,その栄華を極めたものの,大きくなりすぎたために内部分裂を起こし,結局は没落する.そしてその後も門閥間での勢力争い・反乱が相次ぎ,高麗の支配層は不安定になっていった.
1170年,武臣達が軍人と共に文臣を殺戮して政権を掌握するという「庚寅の乱」が起こる.この時の王は享楽に溺れ,各地に池を掘っては山を築き,多くの別荘を建てた.文臣たちは王と共に饗宴を繰り広げたのに対し,武臣たちは警護に動員されたり,文臣たちの前で武技を演じさせらるだけであった.また軍人達も日ごろから別荘建築等の土木工事に従事させられるばかりで,要するに彼らの溜まりに溜まった怒りが爆発したのである.
しかし武臣たちは反乱後の政治体制について見通しを立てていたわけではなく,結局武臣同士で権力を争うようになり,その隙を見て文臣の残党が反乱を起こしたり,またそのような不安定な支配層に対して各地で民衆の反乱が相次ぐなど,高麗はいよいよ不安定になるのであった….続く.