高麗の滅亡.さて,クビライ=ハンの死後,実質的に高麗を支配していた元は内乱で没落し始める.1351年に即位した高麗王恭愍(コンミン)は,即位前の10年間を人質として元で暮らしており,元の衰退ぶりを熟知していた.彼は機を見て反元運動を断行する.元の朝廷と結びついて権勢を振るっていた親元派の官僚を排し,土地改革を行って国家体制を整えようとした.
この時期には高麗の領地制度は崩壊しており,少数の権勢家が広大な土地を占有し,国家財政を圧迫していた.しかし恭愍はコトを急ぎすぎ,結局改革派既得権益層の激しい抵抗によって挫折してしまう.意欲を失った恭愍は宮廷で放縦生活に明け暮れ,結局臣下に殺されて人生を終える.既得権益層は婢から生まれたとされるシヌ(くそー.はてなはコイツ漢字を表記できないらしい)を王位にまつり上げ,再び元と結んでしまう.しかし元の衰退は著しく,シヌ王代の時期には朝鮮半島は南は倭寇,北は紅巾軍(漢族の反乱軍)から攻め込まれたが,国の財政・軍事システムは崩壊していた.これらの進入に対して活躍したのは主に地方の地主達が組織した私兵であった.そしてこの時期に1人の若者が頭角を表した.李成桂(イ・ソング)である.
彼は倭寇・紅巾軍の討伐に多大な功績をあげ,高麗軍の中心的な存在となっていた.そして1388年,親元派の政権が明の討伐を計画し,李成桂は討伐軍総大将として遼東半島へ派遣されたが,彼はその途中独断で攻撃を中止し,そのまま引き返して高麗の首都開京を制圧した.彼は都を漢城に移して旧権勢グループの権力基盤を奪い,土地改革を進め,1392年に自ら王座に就いた.李氏朝鮮の誕生である.