鬱病かよ

ってワタクシのコトではナイよ念のため.最近ワタクシの友人二人が鬱病と診断されたらしい.しかも二人ともオナジ日付にビョーインに行ってるんだから,偶然とはキミョーなモンである.
んでまーヒトリは症状は軽いようなのでシンパイしてない.気になるのはモヒトリの方で,コチラは相当に根が深いのだ.基本的に鬱病のシトは,周りの出来事なんかを全て失敗とか否定と捉えてしまうために極度に自己嫌悪や自己否定に陥ってしまう.つまり,自分の価値を下げるよーな記憶ばかりを思い出し,ソレがまた本来自分にとって悪くも何ともナイよーな出来事を否定的に解釈させてしまい,またソレが自己否定的な記憶となって…とゆースパイラル.こんな思考状態ではやる気が出ないのはトーゼンで,だから鬱病のシトに向かって「辛い時こそ頑張らなきゃ」とか「気にしなくていいよ,ゲンキ出しなよ」とか言うのは,全部逆効果なんである.頑張れない自分⇒マイナス,気にしてしまう自分⇒マイナス とゆーわけ.
んで,その友人の言葉から,解釈が歪んでるトコロを少しずつ引き出して,こんがらがった思考の糸をホドいていこーと思ってるわけなんだが,まあ,先は長そーである.


そんなコトを考えながらid:cosmo_sophyさんのブログを遡っていると,ああ,何て詳しく分かり易く書いてるんだとまたまた感心してしまったワケである.なので今日も引用させてもらうのであった.
今日明日明後日の3回に分けて,とりあえず今回はid:cosmo_sophy:20050119「デビッド・D・バーンズの10種類の認知の歪み」のうち,前半5つ.

1.全か無か思考(all-or-nothing thinking)

『栄光か、然らずんば死を与えよ』という古代世界の英雄や名将達が有していたような極端な価値判断の認知のことを『全か無か思考』といいます。

これは、非現実的な完全主義や強烈な自尊心に根ざして生まれる認知の歪みであり、無限のグラデーションと多様な価値基軸を持つ現実世界を単純な白か黒か、勝ちか負けかという『二分法思考(dichotomous thinking)』で捉えてしまっている点に錯誤があります。

全か無か思考は、自分が描いた理想的な人生の軌道から僅かでも逸れる事を極度に恐れる完全主義を基底に置く為に、理想的な人生設計を少しでも傷つけるような小さな失敗やミスを過大に受け止めて『自分は人生の落伍者であり、生きている価値などない』という極端な価値判断へと飛躍してしまいます。

全か無か思考の認知を持っている人に共通する特徴は、その多くが平均以上の高度な知的能力の持ち主であり、実際に上げている業績や成績も標準よりも相当に高い水準にあるという事です。

その為、全か無か思考の認知から生じる本人の悩みや焦燥感は、家族や友人知人には理解する事が難しいものも多く、更に本人は孤立感や疎外感を募らせ、より一層の完全主義的目標を掲げてしまうという悪循環に陥ります。

極端なケースでは、学業優秀な生徒で、定期試験では必ず学年トップを取っていて、他の生徒から見ればずば抜けた優れた学力を持っているのに、『自分は、数学の試験で一問間違ったばかりか、英語でも単純なスペルミスをしてしまった。全教科で満点を取らなければ、学年トップであったとしても意味がないんだ』というような苦悩を抱え、『100点か、然らずんば死を』というような強迫観念に絶えず追われてどんな時も絶えず参考書に目を通していなければ気分が安定しないといった事態になってしまいます。

〜中略〜

途中で挫折や失敗さえ経験しなければ、本人の完全主義を維持する潔癖さによって社会的に最高度の成功を手中にする可能性は否定できませんが、世界を二分法思考で解釈する事によって見逃してしまう興味深い知識や価値も無数にある事もまた否定できません。

〜中略〜

世界を、白黒のモノクロームのフレームで眺めて生存闘争の場と解釈するよりも、多層的なグラデーションを持つカラフルなフレームで眺めて自己実現(自分なりの価値を探求する)の場と解釈するほうが、抑うつ感を生じにくいとするのが『全か無か思考』の認知の歪みから学ぶべきこととなります。



2.過度の一般化(over-generalization)

『過度の一般化』とは、自分の個別的な経験を、一般的な事例や法則へと置き換えてしまう事です。

人間の行動による成功や失敗の結果は、行動の種類や目的によって様々な予測不可能な変数が関与しますから、自然界で生起する事象のように一般法則化することが出来ません。

自分の個別的な経験である『一度の入社試験の失敗』を、『次回の入社試験の失敗』へと結び付けてしまうような一般化は端的に錯誤であり、間違っています。

『一度の入社試験の失敗』を左右したのは、あなたの実力や履歴、人格性も関与しているでしょうが、それ以上に面接者との相性や企業の採用人数や競争倍率など偶然性が大きく介在する変数が関与していて、あなたという人間がどの企業でも評価されないから落ちたという事にはなりません。

一度の失敗を、それ以降の全ての失敗へと飛躍して結びつける『過度の一般化』の誤りは、未来の可能性を自分自身で無視して捨ててしまう事になります。

過度の一般化は、失恋や離婚といった心理的な悲哀や孤独感にも大きく影響する認知の歪みであり、例えば、あなたが勇気を出して好きな異性に告白したとして、『あなたみたいな人が、私(俺)と釣り合うとでも思っているの?絶対にお断りよ』と冷淡で情け容赦ない態度で断られたとします。

その1回限りの経験を元にして、『自分みたいな魅力のない人を好きになってくれる相手なんて誰もいないし、どんなに勇気を出して真剣に告白しても冷たく拒絶されてしまうだけだから恋愛は諦めよう』というのであれば、それは『過度の一般化』であり、人間の個性・性格・人格や恋愛対象の嗜好の無限な多様性を無視した短絡的で近視眼的な異性の見方であることになります。

個別的な人生の出来事を一般化された法則的な出来事と解釈してしまう認知の歪みを修正出来ない事による人生上の損失や不利益は計り知れません。

1回や2回失敗しても、いや無数に失敗しても、それを根拠に未来永劫自分は成功する可能性がないと固定的に断定的に判断してしまう事は論理的に間違っている認知の誤謬であり、人間の行動の結果が自然法則化されることがない以上、あらゆる手段や努力を尽くしながら、絶えず自分の可能性を喪失しないようにすることが大切なのです。

人間の人格的魅力や知的能力、社会的コミュニケーションスキルには可塑性と柔軟性があり、自分がより良い方向に変わりたいと願い、適切な手段と努力を継続すれば、それなりの成果と利益を得ることが出来るのですから。



3.心のフィルター(mental filter)

過去の不快で自己嫌悪を惹き起こすような出来事に選択的にこだわる事で、世界の出来事や他人の行動全てを悪い方向に解釈する『心のフィルター』が作り上げられ、その出来事や言動の内容に関わらず、全てを『自分の価値を否定するような種類の悪いもの』としてフィルタリング(濾過)してしまうという認知の歪みです。

心のフィルターは、認知の歪みであると同時にうつ病に特有の認知障害でもあり、世界のあらゆる出来事や娯楽に興味関心が起きなくなり、何もしたくないという意欲の減退が見られるというのは、うつ病の心のフィルターの影響です。

本来ならばとても楽しみにしていたライブや友人とのショッピングであっても、心のフィルターを通して見てしまうと『好きな歌手のライブだけど、そんな遠くまでわざわざ出かける価値はないし、行っても感動は一瞬だけでその後には疲れるだけだ』とか『友人とのショッピングは、自分の欲しくない商品まで一緒に見て回らなければならないし、人の多い場所で買い物するのは息苦しくて疲れる。そんな苦労をしてまで欲しいものなんて私にはない』といった感じの認知をしてしまうことになります。

心のフィルターは、『選択的抽象化(selective abstraction)』と呼ばれる事もあります。



4.拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)

無意識的な選択的注意によって、自分の失敗や短所、欠点、不利益、ミスといった『不幸という感情を惹き起こす自己嫌悪的な出来事や対象』を拡大解釈する一方で、自分の成功や長所、利点、利得といった『幸福という感情を惹き起こす自己肯定的な出来事や対象』を過小評価してしまう認知の歪みを『拡大解釈と過小評価』といいます。

拡大解釈と過小評価の認知傾向がある人は、どれだけ仕事で高い業績を上げても、それを取るに足りない些細な成果だと解釈し、他人からどれだけ惜しみない承認や評価を受けても、それを表層的で実際に即していない空虚な評価に過ぎないと解釈してしまいます。

その一方で、人生全体には何の影響も与えない僅かな失敗やミスに敏感に反応して、誇大に大袈裟な表現で自らの無知や無能を責め立てて、惨めで憂うつな気分に入り浸ってしまう事になります。

拡大解釈と過小評価の認知の歪みを訂正していかないならば、その人はどれだけ努力して偉大な成果を達成しても、心の底から喜びや充足感を感じる事が出来ない事になり、必要以上の自責感や自己破滅的な自暴自棄に苛まされる事になるでしょう。



5.感情的決め付け(emotional reasoning)

物事の真偽判断や出来事の価値判断の基準を自分自身の感情の変化に置いて、自分の気分や感情が良いか悪いかによって物事を全て判断してしまう認知の歪みです。

例えば、『自分が生きている価値がないと感じているのだから、私は生きる価値のない人間なのだ』という命題は、絶対的に正しく訂正不可能なものであるというのが『感情的決め付け』です。

こういった感情的決め付けが他者に向かってしまうと、『あの人の言動は私をイライラさせて不快にするから、あの人は全く無価値でつまらない人間だ』という価値判断が客観的次元においても成り立つような錯誤を生じてしまいます。

うつ病の症状として現れる『感情的決め付け』の認知の歪みは、『私はこれから先、回復していくという希望を感じることが出来ない。だから、私の憂うつ感の問題は永遠に解決不可能な問題なのだ』『私は働く事も勉強する事も出来ない。だから、私は社会で生きていく資格がないのだ』『私はあなたの言い方に私を批判して攻撃しようとしている意図を感じる。だから、きっとあなたは私のことが嫌いでいつか見捨てるに違いない』といった形となって現れてきます。

感情的決め付けは、うつ病の決断力の低下や決断の引き延ばしにも影響しているとされています。

例えば、『私はベッドから外に出る気が起きない。だから、今日一日はベッドからきっと出られないだろう』『私は何も出来るという自信がない。だから、これからずっと何をすることも出来ないし、何かをしようとする決断も出来ないに違いない』という風に、気分が直接的に行動につながる決断を遮断してしまうのです。

いやー,ありがたい.実は認知の歪みについて詳しく解説していたサイトが数年前に消滅してしまい,あーコマツタナと思っていたのだった.それにしてもcosmoさんってナニモノなんだろうか.気になるなあ….

…続く.