続・デビッド・D・バーンズの10種類の認知の歪み 

昨日の続きネ.id:cosmo_sophy:20050119から.

6.マイナス化思考(disqualifying the positive)

自分にとってプラスになる良い出来事や良くも悪くもない中立的な出来事を、全て自己否定的かつ自己嫌悪的なマイナスの方向へと解釈してしまう認知の歪みのことです。

他人が自分を評価してくれても、『確かに彼は私を高く評価してくれたけれど、あの程度の評価は他の多くの人もされているし、おそらくあの評価も単なる偶然か彼の社交辞令に過ぎないに違いない』とマイナス化思考を働かせてしまったりします。

家族や恋人が愛情や思いやりを示してくれても『彼の愛情は表面的な見せ掛けだけのものに過ぎないし、本当は私よりも好きなタイプがあるのに妥協して私と付き合ってくれているだけなんだ』とか『家族が私を思いやってくれるのは、世間体や体裁を取り繕っているだけで、本当は私みたいなダメな人間はいないほうが良いと思っているに違いない』とかいった悪い方向に全てを解釈して受け取ってしまうのが、マイナス化思考です。

マイナス化思考は、他人のせっかくの心からの誠意や愛情、思いやりを台無しにしてしまうばかりではなく、自分自身の人生の幸福や満足感、達成感さえも虚無的な味気ない出来事に変えてしまう悲観的な認知の歪みの典型的なものです。



7.結論の飛躍(jumping to conclusions)

思い込みの感情や誤った固定観念、独断的な判断をもとにして、現実とは異なる悲観的で絶望的な結論を飛躍して出してしまう認知の歪みです。

a.心の読み過ぎ(mind reading)

相手の真実の感情や判断とは無関係に、自分勝手に相手の表象(イメージ)を作り上げて、相手の気持ちを独断で読み取ってしまう認知の歪みです。

人間には、相手の内面心理を外部の僅かな情報から読み取るような特殊能力や超能力は備わっていないのですが、『心の読み過ぎ』をしてしまう人は、偶然忙しくて電話に出られなかった相手の心を深読みして『相手は自分とは話をしたくもないほどに、自分を嫌っているんだ。それなら、もう彼とは口を聞かないようにして、会わないようにしよう』というように相手の真意や事情を尋ねる前に相手の感情を間違って読み取ってしまいます。

『心の読み過ぎ』の陥穽にはまり込んでしまうと、本当は相手は自分のことを何も悪いように思っていないにも関わらず、『相手が自分を嫌悪している、軽蔑して敬遠している、馬鹿にしている』といった感じで、『否定的で攻撃的な感情』を自分に向けているように錯覚して認知してしまいます。

その結果、人間不信や人嫌いといった非社会的な行動によって集団活動への適応が障害されてしまったり、大切な恋人や友人知人との関係が悪くなったり疎遠になって破綻したりする悲惨な結果を導いてしまう事があります。

他者の心が自分には手に取るように分かるというのは、明らかな認知の錯誤であり、ある種の特殊能力への確信ですから、相手の気持ちが分からない時には直接相手に確認してみてからどのような態度をとるかの判断を下しても遅くないですし、大切な人との関係を円滑に維持する事につながります。



b.予期の誤り(the fortune teller error)

現実的かつ具体的な根拠となるデータが存在しないにも関わらず、自分には未来に起こる出来事が分かるかのような認知をしてしまう錯誤が『予期の誤り』です。

『予期の誤り』は、現在うまくいかない失敗してばかりの自分は、将来においても必ず失敗して挫折してしまうだろうといった形で現れる事の多い認知の歪みで、疎遠になっていく対人関係の行く末にも予期の誤りが大きく関与しているとされます。



8.すべき思考(should statements)

完全主義者や原則主義者に多い認知の偏りとして『すべき思考』があります。

具体的な理由や現実的な制約や威圧的な強制などが存在しないにも関わらず、何かの物事をやる時には必ず『〜すべき』『〜しなければならない』という強迫観念に似た切迫感や焦燥感に駆られています。

基本的に、物事への意欲や気力は、切迫した追い詰められた状況や強烈な圧迫感を感じる心理状態では低下する性質を持っているので、『〜しなければならない』と強迫的に自分を追い立てれば追い立てるほど何事も出来ないという悪循環のループにはまり込みます。

その上、自分で設定した無根拠な強制的ルールに自分がうまく適応して従えない場合には、例えば『3時間、少しも休まずに数学の勉強をし続けなければいけない』というルールを破ってしまった場合には、自分は怠惰で無能な人間だというように的外れな自己非難をしてしまって、本来抱く必要のない無力感や敗北感、自己嫌悪による憂うつ感を感じてしまいます。

『すべき思考』の独善的な判断基準や努力目標を、社会一般のルールへと置き換えてしまうような場合には、他者に自分の独善的な行為の判断基準を求めて期待するという認知の歪みになってしまい、『自分が好意を示したのだから、彼もそれ相応の礼儀を尽くして恩返しすべきだ』といった強迫観念を抱く事になったりすることがあります。

当然、自分の自己ルールである『すべき思考』は他者には通用しませんから、他人が自分の期待を裏切ると本来感じる失望感や嫌悪感のレベルを越えて過剰な失望や絶望を相手に感じて、怒りや恨みを抱いてしまう事にもなりかねません。

『すべき思考』は、その程度を和らげて、『〜できるほうができないよりも良いだろう』といった具合に解釈すべきで、望ましいのは『〜してみたい』という外部強制的でない内面的な動因の高まりへの置き換えです。



9.レッテル貼り(labeling and mislabeling)

『レッテル貼り』が、部分的情報から全体的判断をしてしまうという認知の歪みです。

人間の行動や発言のポジティブな側面ではなく、ネガティブな側面に選択的に注目してしまう批判家や天邪鬼といった揚げ足取りを好む人たちは、個人の否定的な特徴の一部に注目して、『人でなし・冷血漢・恥知らず・馬鹿者』といった単純で分かりやすいレッテルを貼りますが、うつ病の人たちは自分自身に対してマイナス評価のレッテル貼りをしてしまい更なる抑うつ感や無気力の荒波に呑まれてしまいます。

典型的な憂うつ感に沈みやすい人のレッテル貼りとは、『仕事も勉強も出来ない自分は、人生の敗北者だ』『今回の試験に合格できなかった自分は、人生の失敗者だ』『こんな簡単な作業もできないなんて、自分はダメ人間だ』という様な自己破壊的で根拠のない不合理なレッテル貼りです。

レッテル貼りは、人間存在の全体的な価値判断を個別的な行動の成否や善悪で固定的かつ断定的に拙速に判断してしまう誤謬です。

人間存在の価値は、個別的な場面場面の行動によって全規定されてしまうような底の浅いものではなく、単純なラベリングによってその人の実際の人物像や人格性や知性を表現しきることなどは出来ません。

自分に貼るレッテルは、自己破壊的で抑うつ感を誘発する無意味なものであり、他者に貼るレッテルは、不必要な反発や敵意を煽り立てて無益な争いや対立に発展することがあり、他者との相互理解を疎外する効果しか生み出さないでしょう。



10.個人化(personalization)

『個人化』とは、不利益や損失を生み出す出来事の原因を、全て自分の責任へと還元してしまうといった認知の歪みです。

本来、あなたの責任でも何でもない悪い出来事や他人の行為に対して、『自分が悪かった。自分がもう少し努力してきちんとした対応をしていればこんな事にはならなかったのに申し訳ない』というのが『個人化』の認知の誤謬です。

例えば、子どもが偶然の事故で怪我をして、それを事前に予測して防ぐ手段などなかったにもかかわらず、その責任の全てが母親である自分にあると考えて、必要以上の罪悪感や自責感に悩まされるといったことが個人化になります。

『現実に起こる全ての出来事』に自分の行動や価値観や発言が何らかの影響を及ぼす事ができるはずだという無根拠な信念に『個人化』の錯誤は支えられていますが、一人の人間が周囲で起こる偶然の悪い出来事全てに責任を負うことなどはとてもできません。

他人が自らの意志で決断した行為とその結果に対しては、その人自身が責任を負わなければなりません。

例え、その結果がどんなに悲惨なものであっても、あなた自身がその行為を強制してさせたのではない以上、悲哀ではない過度な罪悪感や責任感を感じるのは認知の誤謬であり、本来感じる以上の抑うつ感や無気力感へとつながってしまいます。

当たり前だが,鬱病の人間だけが以上のような認知の歪みを持っているわけではない.人間誰しも周りの出来事を歪めて解釈してしまう傾向があって,ソレはシカタナイんだけども,あんまりソレに流されると激しく損をしてしまうから気を付けた方がイイ,くらいもものかな.
自分にだって認知の歪みがあるんだということを知っていれば,何かに対して悲観的に感じられても,冷静に対処できるワケだ.バンザイ.