感服致しました.


中国の反日デモとか,巷で話題になっておりますが…


id:cosmo_sophy:20050423


↑コチラ↑の記事は,やはりサスガとしか言いようがナイっすネ.日中双方の主張が客観的に正しいか正しくないか,というレベルを遥かに越えたトコロで考えておられます.こーゆーレベルの分析が,どうしてマスコミには出てこないのだろうなあ.一部引用させて頂いときます.

中国や韓国で連日繰り広げられた反日デモの原因には、中国の共産党独裁体制に対する人民の不満や反発の鬱積、日本の国連安全保障理事国加入への反対、中国側の内政的観点による人民のガス抜きなど幾つかの要因を考える事が出来る。

中国政府の見解では、日本との歴史認識の差異が中国人民の反日感情を高揚させ、反日デモを過激化させたのであり、中国当局には一切の責任はないという事である。

しかし、中国政府が、日本の歴史認識に対する人民の愛国心に基づく怒りを思い知らせる為に、この反日デモを警察権力で強制的に鎮静化しなかったというよりは、沈静化できなかったという方が正しいように思う。

この反日デモを中国政府が主導したという見方は全く正しくないし、反日デモで暴徒化した民衆の破壊行動は、民衆が潜在的に孕んでいる政権転覆のエネルギーの片鱗を窺わせるものでもあり、現支配階級である共産党上層部の無意識的な不安や疑念を喚起するものだからである。

絶対的な政治権力は必然的に腐敗するし、既得権益の階層の新陳代謝がなければ権益から排除されている階層の不満や反発は抑圧され蓄積されていく。

中国共産党の現状は非常にアイロニカルなものであり、彼らが党名に掲げている共産主義の理念が表層的な欺瞞的理想に過ぎないことを歴史過程において自己証明する事になる予感を感じる。


〜中略〜


つまり、共産主義の理念は、原義に基づけば既得権益や独裁体制を破壊し、庶民や民衆の自治的な主権体制を構築し直し、自分自身の身体を使って疲労という苦役を得る労働者が主役となる社会を作ることにあった。

しかし、共産主義の理想と現実の落差から生まれた歴史的陥穽は、社会主義の実験的国家ソビエト連邦成立から日を待たずして明らかになった。

共産主義思想を構築したマルクスエンゲルスの致命的な誤謬は、人間の本性である利己主義や支配欲求を完全に見失っていたことだった、即ち、人間は本来的に完全平等な世界を願望しておらず、共産主義を信奉し革命に協力した民衆の大部分は、現在の貧困や支配から逃避する為にあるいは今まで自らを虐げ抑圧してきた階級を嫉妬や憎悪を元に抹殺する為に暴力と破壊による転換点を欲していただけだったのだ。

理念としての平等や支配者階級の廃絶は、現在の自らの社会的地位を向上させる為の方便に過ぎなかった、その証左として革命を遂行した指導者の多くは自らを神格化しあるいは絶対権力者としての地位や名誉を当然の報酬として受け取った。

レーニン毛沢東スターリン金日成カストロ、有名な共産主義を掲げたリーダーを思い浮かべるだけでも、特別な政治権力を自らに付与した指導者ばかりであり、労働者と全く同等の地位という建前を持っていても、実際には絶対的な権力と軍隊を掌握していたし、質素な庶民的生活水準に甘んじた人物は一人としていない。


〜中略〜


人間も生物の一種である以上、自己保存欲求や利己的な遺伝子が要請してくる遺伝子の保存欲求を完全に否定し切ることは不可能であり、市場経済が浸透した先進国に生きる人間は『自分の経済状況は、自分の行動が招いた自己責任の範疇に収まるものである』という経済に対する自己責任感が非常に強い。

だから、仕事をせずに路上生活をするホームレスに一日の給料の半分を上げようという博愛主義的な人は滅多にいないし、相当にお金に余裕があっても自分の自尊心を満足させる高額消費にお金を使うか、残りは貯金や投資に回してしまう。

また、自分の生活水準や経済状況には、自分の行動の選択による自己責任を負うという資本主義の原則を完全に否定して、政治権力が社会に存在する資源を全て回収して平等に分配するようにすると、他人からの寄付や施しによって自分は何もせずに生活をしようとする層が増大するだけでなく、真面目に労働する層が働けば働くだけ損をするという不公正な社会構造が生まれ、結局、誰も働かなくなり経済社会は機能不全に陥るだろう。

現実の国家体制である国民国家の枠組み、現実の経済体制である資本主義市場経済の枠組み、現実の人間観である自己保存欲求(自己の幸福の為に働く欲求)に規定される大部分の人間、これらは近代主義の強靭極まりないフレームワークであって、この枠組みは尋常な社会変動や技術革新では破壊されることはないし、現段階で考え得る最善の政治体制であり経済体制でもある。

『人間は基本的に自分を犠牲にしてまで他人の為に恒常的には働かない』……この厳然たる事実を覆す事はおそらくイデオロギーや政治制度では不可能ではないだろうか。

また、現状でこの自己責任にもつながる事実を覆す意味も価値も見出せない。

故に、現代社会において共産主義の理想は必然的に挫折せざるを得ない。また、暴力的革命への熱狂は、ニーチェの説く弱者の強者に対する怨恨であるルサンチマンが暴力の形態をとって憂さ晴らししているに過ぎないという事になるだろう。