ヲススメ

最近その存在を知った仏文学者,内田樹.んで,そのヒトのブログも発見したんだけど,コレがオモチロくてハマっているワタクシ.
内田樹の研究室


で,以前ソコに書かれていた「学びについて」というエントリーに「おおおっ」と唸らされたので一部引用して照会しとくべ.

「学び」のもっとも起源的な形態は「母語の習得」である。


「そろそろ学齢期だし、ぼちぼち日本語でもやっとくか」というような判断をなされた上で母語習得を始める赤ちゃんというものは存在しない。赤ちゃんが母語を学んでいるとき、赤ちゃんには「言語」という概念がない。もちろん「コミュニケーション」という概念もないし、「熟練した母語運用能力を生かした職業に就きたい」というような就活事情もない。赤ちゃんは「自分が何を学んでいるのか知らないことを学んでいる」。それどころか「『学ぶ』とはどういうことかを知らないうちにすでに学んでいる」のである。これが「学び」という遂行的なプロセスの本質である。


ほとんどの人は「学び」というのは、「有用な知識や情報や技能」を主体的に獲得してゆくことだと思っている。違いますよ。


「これから学ぶこと」は定義上「まだ学んでいないこと」である。
「まだ学んでいないこと」が「有用」であるかどうか、どうしてわかるのか?
それが何を意味し、どんな価値があるのか、どうしてわかるの?
もし学ぶ前にあらかじめそういうことが「わかっている」のなら、それは「学び」ではない。学ぶとは、母語を習得している赤ちゃんがそうであるように、自分が何を学んでいるかを知らず、そもそも自分が学びのプロセスに巻き込まれていることにさえ気づいていないというかたちにおいて遂行されるものなのである。
だから、「学校に行って、これこれの知識や技術を身につけたい」というようなことを軽々に口走らない方がよろしいと私はつねづね申し上げているのである。
学校に行くのはよいことである。それはそこにゆくと、「自分がその意味や価値を知らないこと」や「『自分がその意味や価値を知らないこと』さえ知らなかったこと」に偶然ゆきあうチャンスがあるからである。


コレはウマイコト言われたなぁ…って,名のある学者で本もタクサン出してる人だからアタリマエなんだけど,とにかく,「自分がまだ見たことも聞いたこともないようなもの」を探しながら生きていきたいモンである.