仏教:諸法無我

「縁起」は,「世の中のモノゴトは,ドレも何らかの原因で生じたモノであり,ソレ存在させている原因が滅すれば,その存在も滅する」とゆーことで,


「無常」は,「ワレワレが認識し得るモノゴトに,変化しないものは一切ナイ」だったネ.


今日は「諸法無我」.自分自身に焦点を当てて,自分とはいかなる存在か,自分の本質とは何なのか,とか考えるのに参考になるかもネ.就活の自己分析に応用できるかも知れません.


ハイ,そんなワケないですね.


じゃ,本題に入りましょー.


縁起の法則によって生じているモノゴトは,相互依存,つまり他のモノゴトと関連し合いながら存在している.言い換えれば,「生」は必ず「滅(死)」を含んでいる,と認識しなくてはならんってコトである.


また,楽受(快の感情)も結局は苦受(不快の感情)に帰す.「苦」そのものも無常を逃れるものではナイんであるが,自分の体・心を愛し執着し続ける「我」というものがある以上,たとえ「苦」が無常であったとしても,思い通りに制御することはムズカシい.ああ,難しい.


が,ブッダは言う.

我れというものはない.また,我が物というものもない

すでに我れなしと知らば,何によってか,我が物があろうぞ


ハイ,「縁起」の法則の応用である.「ワタクシ」がなければ,「ワタクシのモノ」もあり得ナイ.


と,ココでウパニシャド哲学(id:KEN_NAITO:20050519)をオサライ.ウパニシャドは,宇宙の根本真理や根本原理が存在すると考え,コレを「ブラフマン(梵)」といった.宇宙の根本真理「ブラフマン」.しかし,考えてみりゃ「私」も宇宙の中の一部,宇宙に根本原理があるとすれば,「私」の中にも宇宙の根本原理が宿っているハズだと.この「私」の中の真理を「アートマン(我)」といった.私の中に「アートマン」=「我」が,それが「ブラフマン」=「梵」と究極的には同じモノであり,自分の中に存在する真理を悟れば,すなわち世界を悟る(梵我一如)を目指したのであった.


ブッダはしかし,マズは「ブラフマン」を無視する.
「宇宙の根本原理なんて,分かったトコロでヒトの苦しみが消えるワケがナイじゃナイ」
仰るとーリですな.

そして「アートマン」の存在は否定したんである.全てのモノゴトは縁起によって生じてるんであるから,内部に「変わらない本質」を持つよーなモノなんて一切ナイんである.いわんや人をや.


「自分もまた縁起によって生じた無常の存在であるならば,自分の中にも変わらぬ本質などあるワケがナイ,だから「我」は存在しない」と.


でも,ヒトは「我」があると錯覚している.錯覚するが故にまた自分の「モノ」に執着する.

例えば愛する者をワガモノであるかのように思い込んだり,愛する者と自分とは一心同体であると思い込んだりする.愛するという感情と,自分のものにしたいという思いとを混同してしまえば,無常でしかないモノに捉われ続け,ソレが永遠に続くとゆー錯覚の中に迷い込んでしまう.
自分以外の他人のタメ,と言いながら行われる様々な行動すらも,自分が欲するがままに行われたならば,その思いとは裏腹に悪しき行為をなしていると言わざるを得ないのである.


だがしかし,「無我」というのは,決して主体的な自己をも否定しているワケではナイ.ブッダはむしろ自己こそ最終的に拠り所とすべきだと考えてたりもする.

「自己のよりどころは自己のみである、自己のほかにいかなるよりどころがあろうか」


あー,ややこしくなってきた.ダイジョウブですか?


えっとね,「我」というものの本質とか固定的観念を全部否定し切ったものが,「無我」なんだけど,無我ってのは「我」が「無い」んであって,「何も無い」のではナイんである.変わらない本質はナイ,性質も含めて自分の所属してるかに見えるモノは一切が無常.その何もかもが他の何かに依っているオカゲで存在しているに過ぎないモノ・でも,だけど,「何か」は「ある」.何かが,ある.ソレが自己なんである.


だから,「我」の全てを否定しきったトコロに残った「無我」こそが,そのまま自己と言い切れるとゆーワケである.そのような自己こそが,ナニモノに対しても「我れの物である」ということから一番遠く離れることができ,また唯一拠り所となり得る自己と考えるのだ.

我れというものはない.また,我が物というものもない

すでに我れなしと知らば,何によってか,我が物があろうぞ


あー,やっとブッダのハナシが終わった.次は大乗とか小乗とか.