我思う,故に我あり

仏教ばっかり偏っててはバランスが悪い.ワタクシはそもそもヒトツのモノゴトにアタマやカラダを支配されるよーな状態が好かんのである.(だから論文書かなきゃイケナイこの状態でも,日記は書く)


で,「諸法無我」なんか,ワタクシがよく似てるナと思った西洋の哲学者がいるので,今日はそのヒトについて少し書く.名前はルネ=デカルト.「我思う,故に我あり」のフレーズだけはチョー有名な哲学者…にして数学者かつ自然科学者だったんだけど.例えばX,Y軸を使って平面上の位置を座標で表すコトを発明したのもデカルト氏.へえー.


デカルトは1596年に金で地位を買った「成り上がり貴族」の息子として生まれたが,生まれて間もないうちに母親を亡くしている.八歳で名門のラ・フレーシュ校に入学したが,ソコで彼が学んだことについて,卒業後の彼はこんな言い方をしている.

・歴史について
「過去の世紀の出来事にあまりにも興味を持ちすぎると,現代の出来事にきわめて無知になってしまう」
・哲学について
「なにごとにつけてもまことしやかに語って,浅学の者から嘆賞をうける術を授けてくれる」
「数世紀このかたもっとも優れた人たちによって開拓されてきたものにもかかわらず,論争の余地のない,したがって疑わしくないものはまだひとつとしてない」


同時に数学については,

「数学は推論が確実で明白だから,ぼくにはとりわけ気に入っていた。だがその本当の使い方をぼくはまだ気づいていなかったし,築城術などにしか役立っていないように思えたので,土台がこんなにしっかりとして堅固なのに,その上にもっと程度の高いものが何ひとつ建てられていないことに,ぼくは驚いている…」


この時代の彼はルネッサンス期のヒューマニズムをかすかに軽蔑し,宗教的な形而上学には猛烈な反発心を抱いていた.同時に彼は,数学を中心とする自然科学に何よりも期待をよせていた.んだけど,彼は自然科学の道にまっすぐには進めない.
1614年ラ・フレーシュ学院卒業後,大学で法学士の資格を得ている.貴族の子として社会的地位をえるには帯剣貴族となるか,法曹界に進むしか道がなかったのだ.
だが,彼はその敷かれていたレールを自らハズれる.デカルトは書物を捨て,社会という荒波のなかに飛び込むことによって,自らを鍛えることを決心したんである.彼は軍隊に志願してオランダに渡り,戦場に身をおく.その後も軍務につきながらデンマーク,ドイツを渡り歩き,さまざまな経験を積んでいった.その結果を世に公表しようとしたのは1633年,すでに37歳になっていた.

教師から教えられる年代を過ぎると,僕は本を読んで学ぶことをすっかりやめた。そして自分自身や,世界という膨大な書物のなかからしか見つけることのできない知識を追求しようと決心した。僕の残りの青春を,宮廷や軍隊を知り,さまざまな性格や条件をもった人々と交流し,多くの経験を積み,それらの出会いを自ら幸福であると思い,自分が本当に利用することができると思えるものについて考察することに費やそうと決心した。


とゆーわけで,どーやらぜんっぜん,アタマデッカチな哲学者ではナカッタみたいである.
さて,ではその彼の哲学を…と思ったけど,ソレはまた長くなりそーだから明日ネ.