デカルト・続き

さて,では書物を捨て,諸国を渡り歩いて観察を続けたデカルトの哲学とは,どんなだったのかと.


デカルトの哲学は,基本的に,とゆーかテッテテキに「疑う」とゆーコトである.見ているモノ,聞いている音,味わっている食べ物,ワインのニオイ,触っているオッパイ(爆),全ては存在しないカモ知れないのだ.だって,そうでしょう?自分が夢を見ている可能性だってあるわけだから.
例えば,ワタクシがスパイダーマンなった夢を見たとする.だが夢の中では,そのスパイダーマンである自分を疑わない.それどころか,バイオ研究者としての自分のコトすら,忘れていることすら少なくない.そして目が覚めれば,今度はアタリマエのように研究者として時間を過ごし,さっきまでスパイダーマンであったコトなどすっかり忘れている.では,どちらが夢で,ドチラが現実なのだろうか?実はスパイダーマンが研究者になった夢を見ていると,考えてはイケナイ理由があるのだろうか?

そーやって考えていくと,何もかもが疑わしくなってくるよねえ.自分の手足が今見ている自分の手足のよーなイロやカタチをしていない可能性だってあるし,そもそも手も足も,カラダさえ実は存在していないかもシレナイ.自分の意思さえも,ソレが本当に自分の意思であるかはわからない.例えばもしも自分が,ある物語の登場人物にすぎなかったら?自分では自分の意思だと思っていても,実際のところは作者の思うがまま,自分なんて操り人形にスギナイとゆーコトになる.


では,自分も存在していないのではないだろうか?


トコロガばっとシカシ,なんである.

しかしこのようにして、少しでも疑うことのできるものはことごとくこれを退け、それを偽であると想定してみると、神もなく空もなく物体もなく、私たち自身にも、手も足もなく、体さえもない、と想定することはたやすいことである。しかしだからといって、このようなことを思考している当のものが、思考しているその時に存在していないと考えることは出来ない。したがって、「私は考える、ゆえに私はある」というこの認識は、順序正しく哲学しようとする者が誰でも出会う、あらゆる認識のうちで第一の、最も確実な認識である。


見る,聞く,感じる,思う,考える,疑う…それらの「述語」の,対象となるものは全て存在していないかもしれない,だが,「主語」となるべきもの,つまり「私」がなければ,それらの認識(たとえニセモノやマボロシであったとしても)もまたゼッタイにあり得ないのだ.だから,他の一切全てが存在していなかったとしても,「私」だけは存在する.

我思う,ゆえに我あり

―ルネ=デカルト

とゆーわけなんである.


ココまでなら,ブッダと似ている.でも仏教の「無我」が利他的な思想を志向したのに対し,デカルト以後の西洋哲学は「自我」へと向かうのでした.マル.