仏教思想〜大乗と小乗〜

久々に仏教.さて,ブッダは悟りの教えを説いて回ったワケだけれども,所詮はインド宗教のヒトツである.つまり,出家して修行しなければ解脱デキナイ.輪廻転生の輪からハズれるコトがデキナんである.といって,すべての人が日常生活を放棄して出家できるワケもなく,そーゆー人たちは修行者にお布施をしたり徳の高いお坊さんのそばにいられるコトで満足してた.ソレだけでいちおー,マシな存在として生まれ変わるコトがデキるワケだからネ.
さて,ソコでブッダが死んだ時のハナシ.ブッダが死んだ時,修行を積んだ弟子たちは.この世が無常であることを知っているからジッと悲しみに耐えている.在家の信者たちはとゆーと,ブッダの高い徳を慕ってたんだからトーゼン,嘆き悲しむ.出家した修行者たちのようにクールになる必要も全然ナイ.少しでもブッダのそばにいたい.そこで在家信者たちはブッダの遺骨を埋めてその上に塔を建てた.この塔を「ストゥーパ」というんだが,ストゥーパにお参りしてはブッダを偲ぶような形で自分たちの信仰を守ったとゆーコトらしい.


で,トリビア的な知識なんだが,ブッダの信者はインド全域にいたので,信者のグループがいるトコロにはどんどんストゥーパが建てられる.その下にはヨソから分けて貰ってきたブッダの遺骨の一部を埋める.このストゥーパは仏教の広がりとともにアジア各地に広がってゆく.日本にもある.例えば五重の塔.コレはストゥーパが中国風に形を変えたモノで,だから五重塔の下にもブッダの遺骨の一部が埋葬されてるコトになっている.日本全国あらゆるお寺の塔の下にある…ま,少なくともそーゆーコトになっている.
そんなこんなで,ブッダの遺骨はどんどん細かく分けられて米粒みたいに小さくなる.このブッダの遺骨のことを仏舎利(ぶっしゃり)という.寿司屋さんで米のことをシャリというのはココから来てるとか.ホントかよ.


さて,ブッダを慕う気持ちが強ければ強いホド,在家信者たちはブッダが死んでしまったコトに耐えられなくなる.そんな中,大乗仏教が生まれてキタのだ.
大乗仏教の特徴はマズ何よりも大乗なコト.乗り物が大きいってコトである.修行者でなくても,悟りを得て解脱するコトができると説くのだ.在家の信者でも悟りの世界,つまり彼岸に乗せてってくれる大きな乗り物,すなわち大乗なんである.コレに対して出家者しか悟るコトがデキナイとゆー従来の仏教を大乗側は小さな乗り物,小乗仏教といってケナしたワケだ.(小乗,とゆーのは差別的なので,一般には従来の仏教を上座部仏教という)
また大乗仏教は歴史上の実在したブッダ以外に理念としてのブッダの存在を考える.ブッダの教えを法,ダルマというんだが,そのダルマそのものがブッダだと考える.宇宙の法則の中に永遠のブッダが存在している,と考えれば寂しくナイもんね.


大乗仏教は歴史上のブッダ自身の教えと違うとゆー意見もあるんだが,一般的な理解としては大乗も仏教である.
ブッダは悟りをひらいたとき,いったんは誰にも理解できないから法を説くのはやめようと思った.しかし考え直して布教活動を始めた.悟ろうとして悟れずにいる者に,自分が教えを説いてやれば悟りを開かせるコトがデキるかもシレナイ,そー思ったからである.
で,ブッダがそー考えたのなら,在家信者を見捨てることもナイはずだ,在家信者にも悟りを開けるまで教えを説き続けてくれるハズだ,という考えが生まれる.で,菩薩が考え出された.菩薩は悟る力はあるけれど,他の連中が悟りを開くまで待っていてくれる.連中がが悟りを開いたトキに初めて菩薩も悟りを開く,そーゆーアリガタイ修行者なんである.菩薩は現実にいるかもしれないし,理念的宇宙的な存在としてある者でもある.仏に対する信仰とともに菩薩に対する信仰も生まれ,色々な菩薩が考え出された.


で,大乗仏教の理論を大成した人としての最重要人物がナーガルジュナ.漢訳は龍樹(りゅうじゅ).2〜3世紀頃の,南インドのシト.「空」の思想を生み出したヒトでもある.
愛があるでしょ?私とあなたが愛し合っている.じゃあ愛はドコにあるか.私の中?ノー.あなたの中?ノー.そーじゃなくて,あなたと私の間にある.愛は関係なのだ.あなただけでも私だけでも,ソコに愛はナイ.二人がいてもナイ.二人の間に,関係として愛がある.川はどこにあるか.ここにあるとヒトは思うが,実はナイ.ソレは水と,水が流れる大地のえぐれにスギナイ.水と,その運動と.大地の関係が川なんである.だから川も関係にスギナイ.こーやって関係に分解していくと,実在するモノがナニも無くなってしまう.コレが「空」なんである.


さて,次回からナーガルジュナの「空の思想」に迫っていくよー.