仏教:ナーガルジュナ〜言葉について〜

言葉の持つ大きな役割として、ものに「命名する」ということがある。とにかくワレワレは身の回りのモノから、ありとあらゆる概念、宇宙の果てまで名付け尽くしている。しかし、それと同時に「言葉」と「現象」が同じモンであるよーな気になってくるんだな。


例えば赤外線や紫外線。子供の頃は言葉に騙されて、赤外線は「赤っぽい」色で、紫外線は「紫っぽい」とゆーイメージを勝手に持っていたワタクシ。正確には赤外線は波長が可視光線よりも長く、人の視覚では捉えられない。同様に、紫外線は波長が可視光線より短いために、やはり人には見えナイ。「色」はもともと人間に見える可視光線に対してだけ定義されている。見えない色についてコレは何色、アレは何色と定義するワケにはイカナイからだ。
漠然と夕焼けを見ていたとして、でもソレは「太陽からの光線のうち、波長の長いスペクトルを中心に西の空を透過している」現象が、たまたま人間の目には「赤い夕焼け」と映り、言葉で表現されるとゆーダケのコトである。決してコトバが現象そのものを言い当てている訳ではナイんである。


モヒトツ例えてみれば、音。フツーの人間には周波数が16Hz〜20000Hzの音しか聞こえナイ。ソレ以外の音は、音として認識するコトはデキナイ。結局同じことは人間の五感全てに通じているであろう。


そもそも言葉は人間が作り出したモノなので、想定していない場面に対してまでイチイチ普遍性を要求される必要もナイわけで、今現在の言葉で充分事は足りているのはマチガイナイ。んだが、問題は言葉を使っているコトによる弊害があって、ワレワレは無意識のウチに妄想の世界に引きずり込まれやすい、ってコトである。


筏は河を渡るための道具である。言葉はなにごとかをなすための道具である。渡り終えてなお筏を担いだり、目的を果たしてなお言葉に執着することは愚かなことである。宇宙が有限であるかないか、自分が死後存在するかしないかに頭を悩ますひとは、筏を担ぎつづけるひとである。「有限」や「死」は言葉にすぎないからである。


ワレワレは「死」を理解しているようで分かってはいない。死を経験した人はヒトリとしていないんですから。「いや、わたしは肉親を亡くしているから、死ぬとゆーのがどーゆーことなのか充分分かっている」とか言う人もいるだろーけど、ソレもあくまでも自分以外の人の死であって、肉親を失ったことの「喪失感」が、自分やとりまく環境に及ぼす影響が分かったとゆーダケのコトだ。よーするに、「死」そのものの内容に関してはワレワレは知る術を持ち得ナイのだ。


言葉を駆使すれば、ソコソコのコトは表現可能である。しかし言葉は同時に、現象と必ずしも一致しているような実体を持ったモノでもナイんである。「色」は「人間の視野に現れる性質」であり、「死」は「人間の意識に現れる性質」とでも言っておこう。


さてナーガールジュナは、言葉の虚構性、つまり「言葉は現象ではない」ってコトを見抜いていた。空間を例にとって、言葉による定義を次のように述べている。

空間の定義より前にはいかなる空間も存在しない。もし定義される以前にあったとすれば、それは定義されていないものとなってしまおう。
しかし定義されていないものなどはどこにも存在しない。定義されていないものが存在しないときに、定義はどこにおいておこなわれようか。定義されていないものにおいて定義は行われない。定義されているものにおいても行われない。定義されているものと定義されていないものと異なったものにおいても行われない。


ぽかーん…( ̄○ ̄;)、としてしまいそーだけど、敢えて言ってしまうなら、例えばブラックホールが発見される前は現実の世界には存在していたけれど、ソレは「人間の世界」には存在していなかったのですよ。ブラックホール発見以前の人々はブラックホールなんて知らなかったんだから、彼らの意識の中で形成される世界においては、ブラックホールなんぞ存在していなかったの。コロンブスアメリカを発見するまでは、ヨーロッパの人々の世界には、アメリカは存在していなかった。この辺がウィトゲンシュタインっぽいのよね。「コトバの限界が世界の限界」、定義されていないモノはドコにも存在しないのだ。宇宙であろうと、日常であろうと、定義されているものは今更定義する意味はないし、定義されていないものは定義したくても定義デキナイ。宇宙だろーが日常だろーが、定義されていないものは人間の認識能力を超えているとゆーイミで存在していないも同然であり、それはそのまま言葉の限界を意味するのである。ババン!


さて、先に「死」を「人間の意識に現れる性質」と書いた。コレをナーガールジュナに説明させてみると…?


「死の定義より前にはいかなる死も存在しない。もし定義よりも前にあるとすれば、それは定義されていないものとなってしまおう」


とでもなるのかな。ワレワレは死という現象は現前にあるものと信じている。しかしもう一度考えてみれば、「死という現象」は「死という言葉」によって存在し始めたと言える。ヒトは意識、つまり言葉によって死という現象を作りあげたとさえ言えるカモしれない。結局、死という現象の意識への現れ方はヒトによって異なるワケで、死という現象の本質は一義的に存在するような性質ではナイわけで。


よーするにナーガールジュナは、言葉は現象そのものではないと主張しているということになるだす。現象一般についても、ナーガルジュナ風には以下のような記述が可能となる。


「現象の定義より前にはいかなる現象も存在しない。もし定義よりも前にあるとすれば、それは定義されていないものとなってしまおう」


ヒトは現象を言葉によって定義するが、その結果コトバは現象そのものを乖離し、更には言葉によるイメージが現象ソノモノに先行してしまうとゆー事態がどーしても起こってしまう。だから現象と言葉は完全に一致しているモノではあり得ないし、かと言って全く別のものでもナイ。従って、現象も言葉も「その本質は空」とゆーコトになるのだ。