其の弐「ヒトリで生きてるんじゃないからな!」

いや、そのとーり。ソレにマチガイがナイのは確かである。だが、このコトバが使われる場面での文脈を考えると、コレは容認致しかねるワタクシである。


「ヒトリで生きてるんじゃないからな!」とゆーコトバは、組織(家でも会社でも学校でも)のルールや慣習に従わない人間に対する説教の、キメのヒトコトとして使われる。人間は一人で生きてるんじゃないんだから、お前もウチのやり方に逆らっちゃイケナイ、このやり方さえ守っていれば皆安泰で、全て上手くいくんだから…と。


それでも言うことを聞かなければ、どーするか。説教者は怒りを込めてこー言う。
「そんなことではオマエ、将来やっていけなくなるぞ!」


そーゆーヒトは、全く考えたコトがナイ。人間はヒトリでは生きてイケナイのが事実であるにせよ、共に生きていく相手や仲間が、その説教者やその家やその地域やその組織でなくてもカマワナイのではないかとゆー可能性を、同じやりかたでも上手くいかないかもしれないとゆー可能性を、考えたコトがナイのだ。


そーゆーヒトは、自分の属している共同体やらナンやらのルールに従うコトで生きてきて、そして成功してきた(と信じている)。そーゆー生き方ソノモノが悪いワケじゃナイ。でも、そーゆーヒトは「皆このやり方に従ってさえいればウマくいくんだ」と思っている。そして、ソコには論理的な根拠は存在しないにも関わらず、「他のやり方は失敗するにキマっている」とゆー排他的な考え方にとらわれてしまう。そーゆーヒトには自分の所属している共同体が全てなので、「その組織から外れる=ヒトリで生きていく」とゆー信じられない単純化が起こってしまう。


集団の価値、とゆーのはソコに属する個人のために存在する。集団の価値のために、個人の感性やら自由やらが潰されてイイ理由なんかない。集団の価値観を個人に押し付けようとする人間には、こう言ってやればいい。

部分に価値のないものは、全体にもない――