その45〜罪悪感について〜

じゃ、どーすりゃいーのか。ラッセルは言う。

・・・すなわち、'潜在意識'(←無意識)に働きかけて、私たちの意識的な考えを支配している合理的な信念に、強制的に注目させることである。人はあるときはあるものを信じ、別のときは別のものを信じるというように、気分によって意見を左右されてはならない。罪の意識は疲労や病気など、意識的な意志が弱められたときに顕著になってくる。こういうときに人が感じることは、より高次の自我からの啓示であると考えられている。「悪魔も病気になると、聖者になりたがる」といった具合である。しかし弱っているときの方が元気なときよりもより洞察力(見識)が与えられると考えるのは、馬鹿げている。弱っているときには、幼児的な暗示や連想に抵抗しがたくなるが、最大限の能力を行使できるときの大人の信念よりも幼児的な暗示のほうが望ましい、と考えるべき理由はない。逆に元気のよいときに全理性で熟考の上で人間が判断することは、あらゆる場合において、自分は何を信じるべきかということについての基準となるべきものである。
・・・ある行為について、自らの理性が悪くないと告げているにも関わらず、あなたが後悔を感じはじめるようなことがあれば、いつでも後悔の感情の原因を調べ、その原因が不合理であることについて細部まで確信をもつべきである。あなたが幼なかった頃に乳母や母親から受けた印象と十分に競えるくらい強烈な印象を、あなたの'潜在意識'に与えられるように、あなたの意識的な信念を生き生きと強力にしなさい。合理的なときと不合理なときとが交替する状態に甘んじてはいけない。不合理は尊敬しないし、不合理に支配されもしないという決意をもって、不合理をしっかりと調査しなさい。不合理が、'愚かな考えや感情'を、あなたの意識に無理に押しつけようとするときはいつでも、これらを根こそぎ引き抜き、十分調べ、拒否しなさい。半ば理性によって、半ば幼児的な愚かさによって動揺させられるような、'優柔不断な人間'であり続けてはいけない。あなたの幼少時代を支配した人たちの思い出に対する'不敬'を恐れてはならない。当時のあなたは弱く愚かだったため、彼ら(彼女ら)は強く賢く見えた。習慣のせいであなたは未だに彼らを尊敬しているかもしれない。しかし弱くも愚かでもなくなった現在、彼らの見かけ上の強さと賢さを点検し、それが今でも尊敬に値するかどうかよく考えてみることは、あなたの務めである。伝統的に子供たちに与えられてきている道徳教育によって、世の中がその分だけ良くなっているかどうか、真剣に自問してみなさい。'伝統的な意味で'有徳な人の性質の中に、まぎれもない迷信がいかに多く入りこんでいるか、考えてみなさい。そして、あらゆる種類の想像上の道徳的な危険は、信じがたいほど愚かな禁止事項によって防御されているのに、'大人がさらされている現実の道徳的な危険'については、ほとんど何も言及されていない事実について、熟考しなさい。普通の人が誘われる真に有害な行為とは、どのようなものだろうか。法律によって処罰されないビジネス上の狡猪な行為、使用人に対する苛酷さ、妻や子に対する虐待、競争相手に対する悪意、政治闘争における残忍さなど、これらは尊敬できる、また尊敬されている市民の間に頻繁に見られる真に有害な罪である。
世界の正常な生活において正常な役割を果たすべき人たちは、いまこそ、この病的なナンセンスに対して反逆することを学んでよい時期である。  


自分に呪縛を掛けてしまうよーな価値基準は、それが幼少期の躾によるものだろーが、いわゆる「決定的な出会い」(と本人が信じているもの)によってもたらされたものであろーが、テッテテキに検証されるコトが望ましい。自分の中の価値基準で「良し」と判断されるべきものが本当に自分にとってイイコトなのか、ソレに逆らったトコロで実はダレも損をしたりしないんじゃないか、と。コレまで何十年もその価値観を持って生きてきたからと言って、ソレが自分で自分を軽蔑させてしまうよーなモノでは一生不幸を抱えるコトになる。だがもし一旦その価値観を否定するコトがデキれば、世の中に数多く存在する他の価値観や考え方を、同列に並べて見るコトがデキる。その中から自分に合いそうなものをテキトーに選んで、あとは自分に向かって何度も何度も、繰り返し繰り返し言って聞かせるコトだ。そーすれば、そのうち潜在意識を書き換えてしまえるモノなのだ。

日常道徳における禁欲的な要素はほとんど意識されることはないが、あらゆる仕方で作用し、私たちの道徳律を不合理なものにしている。合理的な道徳においては、−−大きすぎる苦痛を他人にも自分自身にも与えない限り−−自分自身を含めてどんな人にも、快楽を与えるのは賞賛に値することだとみなされるだろう。理想的に有徳な人とは−−私たちが禁欲主義をすべて取り除いたと仮定した場合−−良きものの享受を上回るような悪い結果を伴わないかぎり、つねに良きものの享受を許すような人であるだろう。


合理、不合理、あるいは理性とゆーものの意味について、次回モスコシ詳しく見ていくコトにしよー。


…続く