その46〜罪悪感について〜

昨日の「その45」では今回は「合理・不合理・理性について云々」と宣言していたけれど、ソレは次回ってコトでカンベン。今日は昨日のコトについてモスコシ念押ししておく。


一旦は心の中で罪悪感に対抗しようと決心したところで、そのような状況になれば潜在意識から罪悪感はムクムクと顔を出してくるモノである。そのよーな時に、刷り込まれた価値基準に従った場合と、自分で採用した基準に従った場合とをすぐに並べて思い浮かべるようにする。そして「刷り込まれた価値基準に従えば罪悪感か欲求不満が残る」ってコトを自分に思い出させるしかナイのだ。何度か繰り返しているうちに、カラダもアタマもココロも、新しい基準に慣れてくる。ソレが「考え方の訓練」なんである。


それから、「罪悪感」とゆーものが、道徳感に反する行動を抑える以外の害を及ぼさないと思うのはマチガイである。

 罪の意識には、何か自尊心に欠けたところがある。そして自尊心を失うことで益を受けた人は、誰もいないのだ。罪の意識は、良い人生の源になるどころか、まったくその逆である。罪の意識は人を不幸にし、劣等感を抱かせる。自分が不幸だと他人に対し過大な要求をしがちになり、人間関係から幸福を享受することを妨げる。劣等感は、自分よりも優れていると思われる人たちに対して恨みを抱かせる。彼は他人を称賛するよりは、妬んでいる自分を発見するだろう。彼は、総じて付き合いにくい人間になり、ますます孤独になっていくだろう。
 他人に対して心の広い、寛大な態度を取ることは他人を幸福にするだけではない。それは他人をして好意を抱かせるものであるため、本人にとっても計り知れない幸福の源となる。しかしそのような態度は罪の意識につきまとわれている人には不可能である。他人に対する寛大な態度は、平静さと自分に対する信頼の結果であり、それはある種の精神的統一を必要とする。この言葉で私が言おうとしているのは、意識、意識下、潜在意識(無意識)といった人間性の各層が相争ってはいないということである。このような調和を生み出すことを精神分析家たちが試みているが、専門家の助けが必要になるのは極端な場合に限ってであり、非常に多くの場合は患者自身がこの仕事をなし遂げることができる、と私は信じている。「私には、そのような心理学的な労働をする時間はない。私は忙しいので、潜在意識に任せてておくしかない」などと言ってはいけない。人格の分裂ほど幸福を低下させるものはない。自分の人格の異なる諸部分の間に調和を生み出すために費やされた時間は、有益な時間である。私は、一日一時間、自省のために時間を確保せよと提案しているのではない。自省は自己没入や自己陶酔を増大させるものである。自己没入や自己陶酔はいずれも治療されるべき病気である。逆に調和のとれた性格は外に向かうものである。私が勧めるのは、自分が理性的に信じていることについては断固たる決意を持ち、それに反する不合理な信念を異議なく見過ごしたり、たとえ束の間であっても不合理な信念に支配されたりしてはならないということである。これは、人が幼児的になりたいという気持ちに駆られた時に、自分自身を理性的に説得できるかどうかの問題である。しかし、その説得が十分に力強ければ、ごく短い時間ですむかもしれない。それゆえ、それに必要な時間などは無視してよい。  


罪悪感。ソレが生み出す劣等感。そしてソコから妬みが生まれ、他人への寛大なココロを失わせ、孤独に陥る。おお、こわっ!!
…ってゆーかワタクシ自身が思いっきりこのドツボにハマッてたからネ、よく分かるんだ。そしてラッセルさんも、若かりし日はドツボだったのだ。あはははー


…つづく