その47〜罪悪感について〜

合理性、合理主義、そーゆーコトバには確かに、少々ネガティブな響きがある。理性的な人間=冷徹、無感情、などなど。でも、そのよーな理性に対する嫌悪は、チョット的がハズれてんじゃないかな。ラッセルは言う。

・・・感情を生み出すことは、理性の仕事ではない。しかし憎悪や妬みを最小にする方法を発見することは疑いもなく、理性的な心理の働きである。といって、理性が不幸を招くような情熱を最小にする代わりに、その他の情熱の力まで弱めてしまうと想像するのは誤りである。情熱的な恋愛、親としての愛情、友情、慈悲心、科学や芸術に対する献身などの中には、理性が抑えたいと思うものは何ひとつない。理性的な人間は、これらの情緒のいずれか一つまたは全部を感じるとき、それを喜びとするであろう。なぜなら、これらの感情は自身と他人の双方の幸福を促進するからである。これらの情熱に不合理は全くないが、非理性的な人びとの中には、ごくつまらない情熱しか感じない人が多数存在する。
 合理性は主として内的な調和から成り立つものである以上、内的調和を達成した人は、内面の葛藤によって絶えず邪魔されている人に比べて、世界の見方においても、外的な目的を達成するためのエネルギーの使い方においても、いっそう自由である。自分の殻にとじこもるほどつまらないことはないし、注意力とエネルギーを外に向けるほど気分を引き立ててくれるものはないのだ。


そう、「感情⇔理性」なんて対立構造を考えてはイケナイのですよ。感情を抑えるのは紛れもなく理性の働きだけれども、感情を解放するコトもまた、理性によって初めて可能となるコトがあるワケさネ。反射的に自分の欲求を抑えてしまうとき、それはアナタの中の「刷り込まれた価値観」が勝手に働いているダケである。その根っこを探し出し、捨て去ることによって、より多くの欲求を満足させるコトを可能にさせるのは、理性が持つキョーリョクなチカラであると思う。それこそ、不幸から抜け出す最も確実な方法ではないだろーか。


さて、ラッセルのいう「合理的」なコト、理性的になるコトがもたらしてくれるモノは何か。ソコらへん、次回、つーか明日ね。