その後すぐに、ワタクシは彼女と食事をしたいたときに、いつの間にか彼女に起こった悲劇のことを気にしなくなっていたことに気が付いた。そしてそれは他でもなく、彼女が暗い話をや表情を全くしなかったからだった。そして更に恐らくは、そのときの彼女の意識においても不幸な記憶が鳴りを潜めていたからだろう。
彼女と過ごす時間を普通に楽しむことができたのは、半分は今の彼氏のお陰で、残り半分は彼女の仕事のお陰だろう。当たり前だが、ワタクシは何もしていない。何にせよ、彼女は立ち直りつつあるように感じた。


そういうワタクシの楽観的な観測をしつつも、ワタクシは、少し前に彼女が口にした言葉を忘れたわけではない。ほんの二週間前に、彼女はこう言ったのだ。


「わたしは今もこれからもずっと、前の彼ほどに人を愛するつもりはないねん」


その言葉を聞いたとき、ワタクシは反射的にそれは不幸以外の何物でもないような気がした。そのような態度を貫くことは、彼女にとって「あの頃」以上の幸福があり得ないことになってしまう。それは結局不幸でしかないのではないかと、そう感じたのだ。


だが今ワタクシは、そのときの考え方に疑問を感じている。上の感じ方は物事を単純に捉えすぎている。なぜなら、過去に経験した幸福以上の幸福を将来に経験できないからといって、その人生は不幸だということにはならないからだ。


確かに、彼女が重大な不幸を背負わされてしまった人間であることは疑い得ない。彼女が奪われたものの大きさ、そして「そのとき」の彼女の気持ちなど想像もできない。だが、今日の彼女には「不幸」という言葉は似合いそうになかったし、明日からの旅行は、相手が彼女にとって前の彼氏に劣る存在だったとしても、楽しくないわけもないだろう。しかも、今の職場では仕事もなかなか上手くいっている感じだし、来年には博士課程の入学試験も受けるわけで、少なくとも先を見て生きることができているのだ。それを不幸な生き方と呼ぶ人はいないだろう。


結局――と、ワタクシは思う。


結局、彼女にとって何が幸せで何が不幸なのかという問題は、ワタクシには絶対に解けないのである。彼女のことは、彼女が決めるしかない。誰かが代わりに決めることも、誰かが代わりに彼女の不幸を背負うことも、その可能性を信じることは単なる思い上がりでしかないだろう。


映画やドラマでは、大切な人を失って悲嘆に暮れる主人公の悲しみは、結局新しい出会いによって全てが解決されてしまう。そういうことも実際にあるのかもしれないが、彼女にとってそれは、現実ではない。傷は今も残っているだろうし、これからも絶対に消えたりはしないだろう。ただ何年もの月日を掛けて、少しずつ傷から自由になれる時間が増えていくだけなのだと思う。傷から自由になる、というのは、傷のことを気にしなくてもすむ時間が増えていくということだ。


どうやったら彼女が傷から自由になれるのか、ワタクシには分からない。そのためにワタクシに何か出来ることがあるとも思わない。ただ、その過程を見ていたい――そう思うだけだ。

おわり