人生の意味? そんなものいらない。 

今日はチョット急で書きたい案件が出てきたので・・・


ワタクシは基本的に、「今の世の中を変えてやる!」という信念を持って全力投球しているヒトが苦手である。それは彼らが、他の大多数の人々の生き方を単純に類型化し、否定し、軽蔑するからである。


自分の生き方に自分で満足できるというのは、確かに素晴らしいことだ。そーゆー生き方は、ハタから見ていてもカッコイイ。エネルギーが溢れてて、周りにヒトが集まって。そんな姿を、自分に自信のない人間が見て、思う。自分もこんな風になってみたい、と。
だが彼らは自分の活動が、社会にとって有意義だと信じているゆえに、社会的に意義のないものは全て無意味となってしまいやすいのだ。彼らは、自信満々に言う。


「何か意義のあることをやろうとしない人生なんて、意味がない」と。


そのコトバを聞いて、彼らに憧れる人たちは思う。「その通りだ」と。だが、すぐに気付いてしまうのだ。自分こそ、まさにその「意味のない人生」を歩んでいる人間であることに…。


自信のない人間は、他人に認めてもらうことでプライドを確保しようとする。それも、憧れの対象となっている人間に認められることによって。だがそのためには、人生の意味を見つけ出すしかなくなってしまう。そうして、結局追いやられてしまうのだ。終わりのない旅に…。


彼は頑張る。企業のコマでしかないサラリーマン稼業を呪い、色んな活動に手を出していく。「自分の人生を自分で切り開く」という「型」を手に入れるために。だが結局、理想も目標も見つからない。新しく始めた活動を続けても、先が見えない。当たり前である。憧れのヒトは、活動を始める前から既に「人生の筋書き」を描いていたのだから。カタチだけマネをしたって、どうしようもないのだ。


先の見えない努力は、疲労を生む。それが彼を焦らせる。こんなんじゃいつまで経っても人生の意味なんて見つからない、と。彼は自分に更に鞭を加える。そしてもっと自分を疲れさせる・・・。そのうち彼には診断が下される。病名は「鬱病」である。


でかい目標を見つけて、しかもそれを遂行できる能力がある人間は、確かに一般の不特定多数の人間よりも遥かに多くの幸福や達成感を得られるだろう。だが、そういう成功者よりも得られる幸福が少ないからといって、それらの人々の人生が不幸だという理由はカケラも存在しないのである。


成功する人にとっては、彼らの人生の「結果」をダイジにし、ソレが何よりの生き甲斐である。
しかし、大きな目標に出会うだけの運がなかった人間にだって、それなりの生き方があっていいのである。それは「今を楽しむ」ということだ。


(上に書いたような意味で)疲れた人に向かって、「頑張れ」と言ってはいけない。その言葉は「頑張っているお前が好きだ」、つまりは「頑張っていないお前は認められない」というメタメッセージを相手に与えてしまう。それは彼を、更なる強迫状態に陥れるだろう。