儒教的倫理道徳は大嫌いだ。

一昨日、知り合いの中国人留学生が凹んでいた。折角書いた論文が、教授の手酷い仕打ちに合ったらしい。論文を書いている間は実験からも遠ざかってしまってるし、でも博士号を取って卒業するにはまだまだ沢山実験をしていかなければならないのにってカンジですっかり落ち込んでしまったようだ。


「他のヒトは自分の研究分野以外のことも分かってるのに、私は自分の分野しか分からない。もっと勉強しなくちゃいけないのに、出来てないし、私はダメ」


みたいなカンジで、自己否定モード突入である。おーい、しっかりしろ。他人の研究分野なんぞ、他の研究者だって、教授や助教授だって、分かってるように見えて実は全然知らないんだから…なんてコトバで呪縛を解くことはてんで不可能である。


自己否定モードになりやすいヒトには、それなりの性格がある。そのヒトツは、「頑張りやさん」だ。


彼女はバイトをする。稼ぎは自分の生活費用だけではない。祖国に住む両親に仕送りしてるし、彼女の弟もこの京大に留学しているのだが、その弟の生活費まで彼女がもっているのだ。


「親へ仕送りって、親はまだ働いてんじゃないのかよ?」
「でも少ないから」
「つってもさ、仮に親の収入が足りないからといって、苦学してるお前が払う必要ないんちゃうんかい。他にも兄弟いてるんやろ?」
「弟のほかにももう一人。今は働いてる」
「ほなその彼だか彼女だかに親のことはとりあえず任しといたらええやんか」
「でも少ないから」
「かーっ。だめだこりゃ。ってゆーかさ、親に加えて弟の世話までせんでもええやろ。いくら来年受験やからって、バイトくらいさせんかい」
「でも勉強できる時間が多いほうがいいじゃない。私が日本にいないんだったら仕方ないけど、今日本でバイトしてるし、弟のお金も何とかできないことわけじゃないんだから」
「自分の世話くらい自分でさせろって」
「でもそうやって、もし弟が受験に失敗したら私の責任でしょう?やろうと思えばやれることをやらないのは、我慢できない
「かーっ。ダメダコリャ」


分かるだろうか。彼女は自分が少しでも関われるところがあれば、テッテテキに介入してしまうんである。それは一見、道徳的態度に見える。がしかし、根本には彼女の「誇大自己」、つまりは妄想がある。即ちそれは、自分の力が及ぶ範囲を拡大化していこうとする自尊心の欲求に過ぎない。研究が自分のモンダイなのは良い。しかし彼女にとっては親のことも自分の問題、弟のことも自分の問題なんである。それゆえに、自分は家族の中で物凄く重要な位置を占めている、と彼女は無意識のうちに思い込んでいる。だから私は止まるわけにはいかない、と。


でも、果たして本当にそうだろうか。仮に彼女が親の仕送りも弟の世話もストップしてしまっても、それぞれはそれぞれで何とかやっていくだろう。彼女の必要不可欠性は、彼女が思っているよりは遥かに小さいであろう。研究に関して悩む原因も、そこらへんが占めている割合が大きいであろう。彼女は自分が三年で博士を修了して就職できなかったら、何かタイヘンな事態になると思って疑わないのだ。それが自分に更なるプレッシャーを掛けさせ、焦らせ、実験は更に上手くいかなくなる・・・そんな悪循環になってしまうかも知れない。


「人間努力すれば何でも出来る」


聞こえはいいが、ワタクシは危険な考え方だと思う。それは、


「出来ないのは、私の努力が足りないからだ」


という意味に、容易に転換してしまうからである。それは大いに、不幸の原因となりやすい。