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日曜日の午後、母と二人で東福生の病院へ向かった。母の母、つまりはワタクシにとっての祖母が、先週脳梗塞で倒れたのだ。かなり太い血管が詰まってしまったらしく、既に脳組織の少なくない部分が壊死してしまっているらしい。容態の好転はあまり望めなさそうだとのことだった。


祖母が倒れたことを聞かされてから、ワタクシは何となく彼女の人生を思い返していた。子育てに熱心な夫と共に育てた三人の子供たちは学校の成績も優秀で、全員が大学に入った。いや、山奥の田舎の家庭でありながら、息子1人と娘2人を大学に「入れさせた」のだから、その教育熱心ぶりは尋常ではなかっただろう。何せ今から三十年以上も前のことなのだ。


しかし、子供たちが大学を出て、結婚し、それぞれが家庭を持つようになると、祖父はすることがなくなった。そして、急速に呆けていき、結局養護施設に入った。


養護施設に入って数年が経過した祖父に会ったときのことは、今でもはっきり憶えているが、それは同時に思い出したくない記憶でもある。炭鉱で働いていた祖父は、元々立派な体躯をしていた。幼い頃、ワタクシや弟は、祖父はその太い腕に驚嘆の声を上げたものだった。しかし養護施設で、車椅子に乗せられて出てきた祖父は――


変わり果てていた。


あの立派な筋肉は失われていた。娘や孫の姿を見ても全く反応を示さない。表情もずっと変わらないままだった。これが老いというものなのかと、人生で初めて思わされた瞬間だった。


それから一年か二年かした頃に、祖父は亡くなった。祖父の持ち物を整理してみると、子供たちの小学校や中学校時代の成績表ばかりが出てきたそうだ。


祖母はというと、祖父が施設に入ってからは、そこに通い続ける毎日だった。家から施設まで何キロも離れた道のりを、彼女は歩いた。
祖父が亡くなってからは一人で暮らした。東京の伯父夫婦が何度も呼び寄せようとしたのだが、頑として聞かなかった。だが最近骨粗鬆症で脊椎が欠けて立てなくなり、伯父夫婦のところへ移っていた。老いは、祖母にもやって来ていたのだ。


・・・続く