人はあくまで人であるゆえに

知り合いのポスドクが、雇われていた研究室をクビになった。投稿用に書いた論文に捏造データを使っていて、それがボスにバレたのだ。


彼は相当に有能な人間で、2000年にはGENETICS、2002年にはNATURE GENETICSに論文が載っている。そして現在はEMBOという、恐ろしく有名な研究費&奨学金を貰っていたのに。その彼の輝かしいキャリアが、跡形もなく消え去ってしまったのだ。どう考えても彼にはそんなマネをする必要なんかなかったと思うし、またそれによってどれ程大きな利益を見込めたとしても、研究者としてのキャリアや信用を棒に振るリスクを負うというのは、割りに合うとは思えない。


でも、現実に彼はそれをやった。


そしてこの報せを聞いたのが姉歯さんの証人喚問を聞いた直後だったので、考え込んでしまった。姉歯さんは、真面目で親孝行な人柄らしい。そんな人間が、どーしてまた70件以上の偽装工作をしたのであろうか。いくら病気の奥さんのための医療費が必要だったとはいえ、目の前の仕事欲しさに・・・。彼は職を失っただけでなく、莫大な賠償金を請求されることになるだろう。また社会からは完全に冷たい目で見られるわけで、そんな状態で生きていくくらいなら死んだほうがマシだと思うかも知れない。やっぱり割に合わない。


日本語にはこんなとき、「魔が差した」という便利な言葉がある。しかし「魔が差す」というのは具体的にどういうことなのだろうか。

ふと、邪念が起こる。出来心を起こす

――広辞苑


魔が差すという言葉は、邪念や出来心が、何か自分以外のものによって引き起こされたのだ、だから悪いのは自分ではないのだというニュアンスを含んでいるように感じる。しかし当たり前だが、「魔が差し」たのは悪魔のせいでも何でもなく、自分の責任である。


しかしだからと言ってワタクシは別に、「自分の不幸は結局自分が悪い」とか、そんなありふれたことを言いたいのではない。そーではなくて、恐らくほとんどの人にとって「魔」なら「四六時中」差しているのではないかと、ワタクシは考えるのだ。


子供の頃、ワタクシは近所の窓ガラスを割って逃げたこともあるし、拾ったお金をチョロマかしたこともある。今だって失敗からは責任逃れしたいと思うし、女にはカンタンに誘惑される。ワタクシの意思は、生まれてから今の今まで、そのような邪念や出来心から自由であったタメシなどないんである。


「だからと言ってそのような誘惑に負けるのは単なる子供で、大人なら打ち克って然るべきだ」


とゆーヒトは案外多いかも知れないが、ワタクシはモンダイをそーやって倫理的に判断してしまうことを潔しとしないモノである。「あってはならない」事とゆーのは、決して「あり得ない」事にはなり得ないからだ。


といって、「一生のキャリアを棒に振るリスクを負ってまで成功を手に入れようとするのは割りに合わない」といった、合理的な考え方を訴えても効果は薄いようだ。人間に将来のリスクと目先の利益を同列に並べて考えることを期待するのは、やはり難しい。


「目先の利益」という言葉が頭に浮かんだとき、思わず溜息がもれた。祖母が納所中で倒れて運び込まれた、あの病室を思い出したからだ。
「目先の利益」というのはお金であったり出世や名誉や栄光であったり、或いは汚点の隠蔽であったり・・・。けれども結局、甚大なリスクを負って何かを手に入れても、病院のベッドで寝たきりになれば同じことなのだ。詰まらない、と思った。そうやって、詰まらないモノのために詰まらないリスクを負って、詰まらなく死んでいく人間はこの世界にどれくらいいるのだろうか。そう考えると、人類の存在そのものが無駄に思えてきて、哀しくなってしまう。


しかし結局、ワタクシは楽観主義者らしい。とりあえず世の中のことはおいといて、ワタクシは自分ではこう考える。


将来のリスクと目先の利益を同列に並べて考える合理的な思考は訓練次第で身に付けられるし、それはダイエットや試験勉強やクラブの練習に比べれば遥かに簡単なことだ、と。目先の利益に捉われやすいのも人間だが、将来の利益のためならば現在の利益を犠牲にすることができるのも、また人間なのだから。どっちに流れるかは自分次第だが、とりあえずは知人のポスドク姉歯や韓国のファン・ウソクらの失敗を、肝に銘じておくことにしたい。