No Music, No Life!

ま、上記のように久々に苦い思いをしたワケではあるが、明るいハナシだってあるんである。ソレが人生♪(大ゲサ)


研究室にいる同期の音楽的ツボが、ワタクシの音楽的ツボと相当に近いコトが発覚。しかも、である。ワタクシと同期との音楽的遍歴がまるでカブッておらんのだ。二人とも相当数の音源を持っているんだが、ほとんど相手の知らないモノばっか。同期が持っているCDはワタクシが聞いたこともないよーなアーティストだらけ、そしてワタクシのコレクションは同期にとってはハツモノの山、ってカンジなのだ。


すると、どーなるか。


同期が、コレとかどう? とヲススメしてくれたものを聞いてみれば「おー、何やコレめっちゃええやん」みたいなものの連続だし、その逆も然り。お互い今週だけで交換したCDは20枚を下らんのでわなかろーか。


自分のススメたモノを気に入ってもらえるとゆーのはマコトにウレシイ体験である。他人のに貢献できたとゆー満足感とゆーか、月並みかつ大げさだけど、やっぱりヒトと何かを共感できたと思えるワケで。狩りで得た獲物を大切な仲間のもとへ持ち帰って分け合った時代から、延々と続いているタイプの歓びですな。悦。


でもって、他人から全く新しいモノを勧めてもらえるモノがツボにハマっていた時も、得られるものというのはイイ音楽ダケとはちゃうワケですよ。何だか哲学的なハナシになってしまうけど、「自分の好み」ってのは、大前提的に存在するもんじゃないでしょ。「ロックが好き」とか言ったって、好きだとゆー前にロックに触れていないと始まらないわけで。ロックを聴いて、心動かされて、それで初めて「あ、オレってロックが好きなんだ」ってのが分かる。


だから同期が貸してくれた音楽を気に入るってコトは、同時に「オレのツボってこんなトコロにもあったんかいな、へえ」とゆー、まーキョクタンな言い方をすれば「自己の拡大」みたいなコトが起こるワケですよ。


まあ、大げさな文章に反して些細なデキゴトなワケだが、今週はほぼずっとそんなカンジが続いていたので、論文で凹んだとはいえ、今週の満足度は10段階評価で9くらい付けてもええやろ、と思っておるワタクシなのであった。るんるん

人に対する友好的な関心は深い愛情のひとつの形であるが、欲深で所有欲が強く常に強い反応を求める形はそうではない。後者はしばしば不幸の源泉となる。幸福に寄与するものは、人びとを観察することを好み、個々人の特徴に喜びを見いだし、身近な人びとの興味や楽しみのための機会を与えたいと願うものである。その人たちに対する影響力を獲得したいとか、その人たちから情熱的な称賛を得たいということを願うことではない。他人に対して真にこうした態度をとれる人は、(他人にとっての)幸福の源泉になるだろうし、またお返しの親切の受け手になるだろう。