その60 〜幸福な体験こそがヒトを強くする〜

強くする,という表現が全く好きではないのだが,コレはまあ「ツライ現実に直面したときにも前向きになれる」くらいの意味である.

一昨年の八月のことだが,元教え子が遮断機の下りた踏み切りに進入して,電車に跳ね飛ばされた.遮断機が下りてから進入していったという目撃証言があって,だから自殺の可能性が高い.id:KEN_NAITO:20040815にも書いたが,彼の家庭環境はナカナカに複雑で,両親は既に離婚,父親は再婚して神戸に住み、母親も家を出てひとりで暮らしていた。実家には姉が住んでいたが、父親は「母を絶対家に入れるな」と厳命していた.彼は大阪かどこかで学生をしていたが,家に帰ってきたときもふてくされて、何もおもしろいことがない、と言っていたとのことだった.


当時の日記に,ワタクシはこう書いた.

彼の死が実際に自殺だったとしても,「彼は不運だった」としか言いようがないんである.もちろん不運だったというのは家庭問題が複雑だったことではなく,「何も面白いことがな」かったからである.彼には,何もなかったのだ.尊敬できる人や,人生の楽しみ方を身をもって示してくれる人との出会い,我を忘れる程の感動や興奮,そういった事が,彼には何も起こらなかったのだろう.


ツライ現実に直面したとき,どうやってそれを乗り切ったりやり過ごしたりするのか,その方法はヒトによりそれぞれであろう.「こんなことに負けたりしない」という自尊心を拠り所にするヒトも多いかと思う.だが「思い出すだけで笑みが漏れてしまうような幸福な体験」を多く積んでいるヒトは,そもそも「強くあらねばならぬ」と自分に言い聞かせる必要がない.「あのときのような楽しい瞬間をもう一度」と思うだけで,生きるエネルギーを得ることができるからである.


ワタクシが上記で書いたような尊敬できる人物との出会いや,我を忘れるほどの感動や興奮を体験するのに,敢えて何か苦労や努力を支払わなければならないわけではないはずである.


しかし,世の中には「楽しむ」こと自体を忌み嫌う人が沢山いる.学校も親も,皆を巻き込んで新しい遊びを作り出すガキ大将より,遊ばずに勉強している生徒の方を褒める.それが本当につまらない.