読破

書き忘れてた.中国滞在中,ヒコーキと寝る前の時間を使って読みきった.

西田幾多郎の思想 (講談社学術文庫)

西田幾多郎の思想 (講談社学術文庫)

東洋・仏教思想にの根底にある「否定の哲学」を論理的に記述した最初と言われる西田幾多郎.とはいえ,「全てを否定したところに真実がある」なんてゆーのは,結局のところ実際に仏教の思想に触れたことのある人間にしか理解できないよーな気はする.でも,東洋思想をカジったコトのある人間にとっては恐ろしく有意義な思想だと思う.たとえば・・・


「自己を否定しきったところに本当の自己がある」


とかね.徹底した自己否定は,そのまま徹底した自己肯定につながるのです.ナゼでしょう?答えは自分で読んで探してみてね・・・


なんてコトは言わない.続きはクリックして読んでくれ.

「私は○○な人間です」とゆー自画像は,一旦描いてしまうとナカナカ消えるものではない.そしてエゴってヤツは,「○○でこそ自分」とゆー自己像を生み出してしまう.例えば,自分で自分のことを真面目な人間だと思ってるヒトは,ハメをハズすコトが出来なくなるけれど,彼は「誘惑に負けるなんてバカな人間のするコトだ.そして僕はバカじゃない」と自分に言い聞かせて,色んな欲求や衝動を抑えている.そしてそのような自己像を他人に認めさせることで,社会的な居場所を確保しよーとする.だけどマジメくんはそーゆー社会的な欲求,つまり他人に対してカッコつけたいとゆー自分の欲求を認めないだろう.「他人なんてカンケーない.コレは単純に自分との闘いなんだ」みたいなコトを言うかも知れない.


では,そんなマジメくんに問うてみよう.キミが普段感じている様々な誘惑,それはキミの欲求なんだから,誘惑を感じるキミはキミではないのか? 他人なんてカンケーないとか言うけれど,他人からよく思われたいという欲求を,キミは持ち合わせていないツモリか?キミは「自分との闘い」という言葉を発することによって,他人に「自分と闘ってるヤツ」という自己イメージを植え付けたいダケではないのか? 結局のところ,キミは「他人によく思われたい」という欲求の誘惑に勝てず,その他全ての欲求を犠牲にしているだけではないのか? だとしたらキミは,キミがバカ呼ばわりしている人間とどう違うのか? そしてキミがマジメと言える根拠はドコにあるのか?


とまーこんなカンジで自己の自己像なるものを完全に否定すると,自分も色んな欲求や弱さを持ったヒトリの人間であるコトが分かり,それゆえに自分が持つ全ての側面を「肯定」するコトができる.これこそが本当の自己である.自分に向かってイチイチ何かを「言い聞かせ」て,「否定する」必要などなくなるのである.


般若心経の「色即是空,空即是色」ってのはそーゆーコトでね,「色」とは今自分が考えている現実,それらを一旦全て否定して「空」だと見做す,そうすると次の瞬間には「空」から全然違った「色」が現れる.自分が思い込んでいる自画像,他人に見せたい自己イメージ,そーいったモノを捨てて本当の自己に帰る.ソコから眺める世界はソレまでに見ていた世界とは全然違って見えるハズ.ソレはキミの心が変わったからである.仏教の用語では「世界悉唯心造(せかいしゆいしんぞう)」なんて言うんだけどね,読んで字の如く,世界はことごとく自分の心が生み出したものに過ぎないって意味.まー実際には,「ことごとく」ってワケじゃナイけれど,自分の心が変わったら世界も変わるってゆーのは事実ね.


それから・・・って,西田哲学を解説するツモリがワタクシの哲学談義になってしまった.まだまだ続きがあるんだけれどね,それはまと今度機会があったらってコトで,許せ.