無意識の活用

茨城に飛ばされていた頃の話.実験結果が予想を遥かに超えたものだったときに「何でそうなるのか考えといて」と指導者に言われ,困り果ててしまったことがある.方々から文献を読み漁ったが,自分のデータと一致するようなものが全く見当たらなかった.

そんな時に大学から呼び出しを受けた.それで夜の高速道路を水戸から京都に向かって走っていたんだが,その時に,ふと答えが浮かんできたのである.別に大したことじゃなかった.僕の仮説は余りにも妥当で,考えてみれば本当に簡単なことだった.

不思議なものだと思った.血眼になってその問題に取り組んでいたときには答えなど全然分からなかったのに,音楽を聴きながらハンドルを握っているときに閃く.運転しているときはその問題について全然考えていなかった. …少なくとも意識的には.


後日,ラッセルのこんな言葉を目にして,なるほどと思った.

たとえば、私があるかなり難しい話題について書かなければならないとした場合、最良の方法は、その話題について非常に強烈に、自分に可能なかぎりの最大級の集中力をもって数時間ないし数日間考え、その期間の最後に、いわば、この作業を地下で続行せよと命令する、というやり方である。何ケ月か経過してから、その話題に意識的に立ち返ってみると、その作業はすでに終わっているのを発見する。このテクニックを発見する以前、私は、仕事がまったく進まないということで、やきもきしながら、その間の数ケ月を過ごし、そのようにやきもきしても、それだけ早く解答が出るわけではないので、その間の数ケ月は、いつもむだに費やされてしまったが、(このテクニックを身につけた)現在では、その間、別の仕事に専念することができる。


それ以来,僕は何か行き詰ったときは思い詰めたりムキになったりせず,遊ぶことにしている.論文を書いていて文章が繋がらなくなったとき,頭を抱えずにゲームでもする.30分後にもう一度書き始めてみると,今度はちゃんと文章が繋がるのだ.
今回も,やる気が無くなった時点で僕は実験や論文からは一旦離れて,コンサートとかライブとか飲み食いとか,遊びの方に精を出した.その結果,新しい目標が見つかってやる気も戻ってきた.
もしも学会が終わって燃え尽きかけたときに「あー,こんなんじゃダメだぞオレ」という感じで自分を叱咤して強引に仕事に向かおうとしていたら,昨日の日記が書かれることはなかっただろう.


人間の脳の活動のうち,「意識」がカバーしている部分は非常に限られたもので,その下に膨大な無意識が隠れていると言われる.隠れている,というのは意識に認識されないというだけで,意識だろうが無意識だろうが,脳が活動していることに変わりはないのである.意識的に重要だ,と思ったことは,無意識下でも活動が続行される.だから意識を他に向けている最中に答えを閃く,ということがあるのだろう.逆にあまりに意識的にその問題に取り組み続けていると,意識化で認識できる材料のみで立ち向かうことになってしまい,無意識下の活動が意識に割り込んでくる余地を奪ってしまうのだ.


…多分,ね.