いじめについて

いじめ問題について色々といわれる意見のほとんど全てに僕は違和感を覚えていて,その理由が最近分かった.僕はずっと忘れていたのだ.僕自身いじめたことがあるってことを.(いじめに近い仕打ちを受けたことは憶えてたけど)


僕が通っていたのは田舎の学校だったけど,小3から中2くらいまで,身近に苛めの存在しない年はなかったように思う.勉強が全くできないとか動きがトロいとかチビだとかデブだとか出しゃばりだとか自惚れが強いとか,場合によっては物凄く些細な理由でターゲットにされた生徒もいたと思う.そして僕自身がその当事者になったことは,一度や二度ではなかった.


あのとき,僕は何を感じていたのだろうか.


少なくとも幾つかのケースにおいて,僕は苛めているという自覚さえなかったような気がする.正当性を信じて疑いもしていなかった.というよりは,苛めることによってこそ,自分の正当性を信じることができたと言ってもいいかも知れない.そう,苛めているとき,僕は明らかに優越感に浸っていた.しかし,それだけだったろうか.


そう,苛められる側に回るのを回避するのに必死だった.


そのために苛めた.苛める側,つまり多数派の人間達に嫌われないことが最重要事項だった.そのための最も手っ取り早い手段が,多数派が嫌う人間を攻撃すること.「こないだ○○に『××』って言ってやったら,泣きやがったぜ」みたいなことを,まるで成果報告のように,自慢げに,周囲の連中に話していた自分の姿を思い出す.そうすることで,僕は自尊心を満足させ,同時に集団からの承認を得ようとしていた.


小5の時,クラスに転入してきた生徒がいた.僕は一旦は彼と仲良くなったのだが,彼は体が小さくて,小6の頃から苛めの対象になった.僕はもちろん,その苛めに加わった.
中学に入ると彼とは別のクラスになり,塾も同じだったので再び遊び仲間として付き合うようになった.しかし彼のクラスの人間達は,再び彼を苛め始めた.


部活が終わって帰る頃,たまたま彼も帰るところだったので一緒に帰り道を自転車で走っていたときのことだった.後ろに彼のクラスメート達が集団で付いてきて,口々に「チビ」と言っては嘲笑するような笑い声をあげた.


僕はそのときに初めて,苛めという行為を客観的に見た.いや,自分の姿を見たと言う方が正確かも知れない.


僕はメチャクチャ腹が立った.そして初めて知ったのだ.集団で弱いものを攻撃するのは卑怯なのだと.と言って,勇敢でもない僕は彼らに真っ向から立ち向かうなんてマネはとてもできない.ただ,彼と意識的に付き合うようにしたのだった.


中学を卒業する頃,彼の母親は僕に「苛められてあの子ほんまに大変な時期があったんやけど,内藤くんが仲良くしてくれるようになってから何とか落ち着いたんよ,ありがとう」と言って,頭を下げた.バツが悪かった.「お母さん,僕も彼を苛めていたんです」という言葉が喉まで出掛かって,でも結局飲み込んでしまった.


―――――


そういうことを,僕はつい一昨日まで忘れていた.そう,僕は苛めたことがある.そして僕の経験から推測する限り,世の中のほとんどの大人達は,誰かを苛めたことくらいある筈ではないだろうか.その大人たちが,自分の過去を棚上げにして「苛めはいけません」などと,簡単に言っていいのだろうか.もしも苛めがこの世から無くされなければならないとしたら,何故自分が苛めたのか,それを反省することから始めなければならないのではないか.他人を見下す優越感や,集団の承認に対する欲求は,人間ならば誰もが欠かさず持っている.仏教ならばその欲求そのものを消滅させろと言うところだが,少なくともそれを苛めにまで発展させてしまわないようにするにはどうすればよいのか.子供達に何を教えればいいのか・・・.


どうして誰も,そういうレベルの議論をしないのだろう.


社会の構造がどうの,バラエティ番組の影響がどうの,そんな議論で何がどう解決できるというのだ.