その69〜「自分」がどうしたって?〜

[bros]シリーズ,あれを書いたのは単に弟の自慢がしたかっただけなんだけど,弟は本当に深い台詞を吐いてくれた.

「テレビ見てたら飲酒運転が増えたとか,汚職が増えたとか言うてるけどさ,どれも別に今になって出てきたことちゃうやろ.昔からあったことやん.でもみんなテレビの傾向に合わせたように『やっぱ飲酒はあかんな』とか言うのとか,それは自分で飲酒があかんと考えてるつもりなんやろけど,実はテレビにそう思わされてるだけみたいな感じがするやん」

id:KEN_NAITO:20061113


人は大抵自分で考えて,自分で決断して,自分で行動していると思っている.価値観や倫理観でもそうだ.「自分は過去にこういう経験があって,そこからこういうことを学んだからこう考える」みたいなことを言う人は沢山いる.でも,それでいいのだろうか.
確かに人は周囲の環境や出来事から学習し,自分を形成していく.例えば自分が臆病である(勇敢でない)ことを自覚して勇敢な人間になろうとすることもあるだろうし,人間関係に対する諦めを抱いたりするようになるわけだ.


でも,ちょっと待った.
「自分は今まで積み上げてきた経験から,こう思う」
というのは実はしかし,
「自分は今まで通り抜けてきた環境や経験に,そう思わされてる」
と言い換えることができてしまうんじゃないだろうか.そして受動態にして見直してみると,実は自分が他の色んな可能性を捨てて,一つの見方や考え方に捉われてしまっていることに気付く.弟も言ったことだが,もし自分がイスラム世界に生まれていたら,男女関係で愛憎の物語を演ずる必要なんて全くなくなってしまう.
仮に自分が今の両親の下に生まれた瞬間まで時計を巻き戻して,そこからもう一度スタートさせたとしたら,最終的に今こうして日記を書いている自分とは全然違う経験をして,全然違う人格を持った自分が出来上がるだろう.つまり,今の自分が今の自分であることには,何の必然性もない.自分のものは性格も考えも価値観も判断基準も,全部単なる偶然の産物に過ぎないのだ.


経験から学ぶことは否定しない,というかそれはとても大切なことだ.でも,その経験が本人を束縛して不幸を招いてしまうケースを僕は幾つも見てきた(←経験).経験によって一旦形成されてしまったものから自由になる術を身に付けておくことが,不幸を避ける有効な手段であることは間違いないと思う.