頭の良し悪し

昨日の記事に反応してain_edが今度は id:ain_ed:20070108「頭の良し悪し:巣食うコンプレックス」を書いたので,再々反応.
昨日僕は彼のことを「アタマイイ」と書いたのだが,今日の記事で彼はそれを「嬉しく思う」と同時に「何故それが嬉しいのか」の理由を綴っている.

一つは単純に「褒められた」と感じたからである。もう一つは自分より「学歴」が上の人間に、「アタマイイ」と言われ「認められた」感覚があったのだろう。


僕が彼を「アタマイイ」と思うのは,ここから更にもう一段階奥へと思考が進むからである.

 これらの無意識を解体してみる。・・・「アタマイイ」が褒め言葉になるのは、頭良くなりたいという願望の表れでもあるだろう。そして何より自分より「学歴」が上、そう感じている根源には自分の「学歴」が低いものだ、というコンプレックスの表れでもある。「認められた」という感情は、結局のところけんけんに「認められた」という単純的なものではなく、「高学歴のけんけん」に「認められた」というものであり、主体がけんけんではなく、けんけんのバックグラウンドにスライドしている。


結局彼は僕の学歴を以って僕の頭脳を判断していたのか!?というツッコミはさておき,こういう無意識の「構造」を自覚できるかどうかは,当人の頭の良し悪しを大きく左右すると思っている.どんなに計算が速くてどんなに優れた記憶力を持っていても,そういった「無意識の枠組み」を自覚できない人は,日常生活において馬鹿でしかない.「バカ」ではなく真剣に「馬鹿」という意味でだ.


確かに,学歴が高い集団ほど,集団の平均的能力も高くなるのは間違いないだろう.だが,統計データと個人は違う.高学歴な馬鹿もいれば,学歴のないインテリもいる.結局肩書きやバックグラウンドで人を判断できるはずもなく,その人と面と向かって接してみるまでは絶対に分からない.そういうことが分かっている人は,会話の中からその人の肩書き以外の情報を引き出そうとする.そういう人とは,話していて本当に面白いと思う.


ain_edの記事で紹介されている学歴コンプレックスの話も含めてだが,会話の相手や自分のことをカテゴライズして話を進める人が本当に嫌いだ.「男はやっぱり...」「女っていうのはね...」「日本人は」「アメリカ帰りの人間は」「研究者は」「理系は」そんな言葉を幾ら並べたって,僕の問題は解決しない.そういう境界線を,仏教では「分別(ふんべつ)」という.分別に捉われているうちは,人は迷う.境界線を取り払い,物事をありのままに捉えれば,何事も無事であることに気付く.これを禅では「本来無事」というそうだ.