その74 僕は自由か5

自由意志など幻想だという言葉を,仏教はそのまま受け入れる.僕という個体は遺伝子や環境やその他偶然に体験した事ども(因縁)に決定付けられているのだから,逆にいえばそれらの因縁が一つでも欠ければ僕は僕でなくなる.もちろん僕という個体はあるのだろうが,今の自分とは別の自分となることは間違いない.そして全ての因縁が消滅したたとき,僕という存在そのものが消滅する.それが悟りなんだが,因縁を消し去るというのは,即ち,自己の決定要因から自由になる,ということではないだろうか.


老荘の思想も似たところがある.

最高の境地とは,物などないとする境地である.
第二の境地とは,物はあっても違いがないとする境地である.
第三の境地とは,物に違いはあっても価値に差がないとする境地である.


これは,今の自分の「価値観」から自由になる,ということではないだろうか.
しかし,こんな直観的な言葉を並べても説明にはならないので,精神医療を例に挙げてみる.もしも鬱病患者が決定論的に決定付けられているのだとしたら,治療は不可能だ.

加藤諦三の本で読んだ話だったと思うが,ある女性が頭痛を訴えて病院にやって来たものの,どこも悪いところはない.それで精神科に回されたんだが,担当した精神科医が聞くところによると,今彼女が住んでいる家に,実家から母親が来る度に頭痛に悩まされるのだと言う.精神科医は女性に言った.
「貴女はもしかして,お母さんを憎んでいるのではありませんか?」
女性は精神科医の言葉を真っ向から否定したが,後日再診に訪れた彼女は,言ったのだ.
「私は母が嫌いです.そう思ったら,頭痛も消えてしまいました.」

我侭で自分の要求ばかりを押し付ける母親が,「愛という名の犠牲」を強要してくる母親が,彼女にとって大きな精神的負担だったのだ.ただ,「親は大切するという善」⇔「親を大事にしない悪」というたった一つの道徳観念が,彼女に母を憎むことを禁じた.いや,正確には誰も禁じてなどいなかったのだが,ただ,幼少期からそのように言い聞かされてきた彼女自身の無意識が,彼女に憎しみの心を抱かせることを禁じてしまったのだ.しかし今,彼女は無意識の中に構築されてしまった「枠組み」から自由になったのだ.


・・・つづく