言葉について

全く,言葉とは不思議なものである.
たまに「言葉では何も表現できない」なんてことが言われることもあるが,しかし実際に言葉が持っている力は恐ろしいほどだ.
例えば「男らしい」という言葉がある.なかなかに曖昧な言葉であるが,この「男らしい」という言葉を目にしたあなたの頭の中には,幾つかのイメージが想起されたのではなかろうか.それは力強さだったり,即断即決が出来るということだったり,弱者を庇うとか,小さいことには構わないetc...
どんな単語であれ,それがこのようなイメージを人に呼び起こす以上は,その言葉は意味を持つといえる.もっとも,同じ単語でも喚起されるイメージが人によって微妙にでもズレていることが,コミュニケーションの齟齬を引き起こすわけではあるが.


さて,ここで「親子」という言葉を考えてみたい.この言葉があなたの頭に起こすイメージは恐らく,単に親と子とだけに留まっていないはずである.仲睦まじい団欒の風景や,子育ての風景,あるいは親孝行など,「親子」という言葉が,「親子の情愛」とも言うべきイメージを伴って現れたのではなかろうか.逆に,「親子」を見て幼児虐待や反抗期,遺産の取り合いなどが浮かんできた人は少ないだろう.


単に親と子とを表すだけだったはずの「親子」という言葉には,既に「あるべき親子の姿」が含まれてしまっている.これは,本当の親子というものがそのような情愛に満ちているから「親子」にそのような意味が付与されたわけではない.幾ら人間の歴史から「情愛に満ちた親子」の例を収集したところで,それに劣らぬ数の「憎悪に満ちた親子」の例を指し示すことは容易にできるあろう.今,僕らの脳内で「親子」という言葉に伴われるポジティブ(?)なイメージ,それは幼い頃から見続けたり聞かされ続けたりした絵本やマンガや昔話によって,いつの間にか刷り込まれてしまったものなのである.したがって「親子は慈しみ合うべきだ」などと敢えて言わなくても,人は自分が持つ(でも現実には社会集団全員が共通して持っている)親子像に従って行動しようとするのである.これが,言葉というものが,人に対して持っている権力なのである.「親子だから」「親子なら」.それだけで十分なのだ.


確かに,言葉は人間が意思疎通の為に作り出した「非自然」な人工物である.そう,確かに道具として生まれたものだ.だが僕らがこの世に生まれてきたとき,既に言葉はこの世にあったのである.言葉があったということは,言葉が指し示す「価値体系」や「倫理道徳」も既にあったのである.そしてそれらの価値観や道徳に塗れた言葉を使わずには考えることも,他人とコミュニケーションを取ることもできない僕らは,どう足掻いてもそれに従うしかないのである.いや,不可能ではないのだが.