読破

デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

デリダ―なぜ「脱‐構築」は正義なのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

現象とは存在の「痕跡」であり,その向こう側にあった筈の本体は既にない.したがって意識によって捉えられた現象はいかようにも解釈され得る.書き手から離れたテクストのように.
だが人は,一度読み取った解釈を繰り返して対象に当て嵌めてしまう.「日本人」「関西人」「田舎物」・・・或いは「面白い人」「冷たい人」「だらしない人」etc... 一つの解釈が,当人に繰り返し適用されれば,その人が持っている多くの側面は無視される.デリダはそれを「暴力」と呼び,最初の解釈を解体して別の文脈から読み直すことを「正義」と呼ぶ.しかし読み直された解釈は,再び固定化⇒繰り返しの暴力へと陥る誘惑に晒される.したがって「脱−構築」は終わるところがない.同時に,脱−構築は決して本体には到達し得ないのだ.


分かりやすく言おう.少年時代に呼んだ小説を,大人になってから読み直すと全く異なった物語としか読めないことが少なくない.これはたとえ同じテクストであっても,少年時代の文脈における解釈と,大人になってからの文脈における解釈が同じではないからだ.テクスト,或いは自分が意識を向けている対象の意味は,飽くまで周囲のテクストや事物との関係のおける相対的な位置付けによって始めて決定される.「脱−構築」は,関係の繋ぎ換えをを意図的に行おうとするわけだ.


・・・という僕の解釈も,脱構築されねばならない・・・