消えぬ傷,過ぎない時間

Tがオーストラリアを旅行中に事故死してから,八年が過ぎた.そのTと当時付き合っていたMは,僕らが青春を謳歌した予備校時代の大切な仲間だ.先日,Mが出産したらしい.だが,僕は素直に喜ぶことが出来ない.Mは,入籍していないのだ.

別に,父親がいない,というわけではない.今もMと彼氏は一緒に暮らしている,事実婚の状態だ.そして二人は,フランスではそういう人が増えていると言われるような,入籍することなしに夫婦生活を営むという,時代の先を行くライフスタイルを目指そうとしているわけでもない.ただ,Mが拒んだのだ.

Mは,入籍によって姓が変わってしまうのを嫌がった.夫婦別姓は日本ではまだ法制化されていない.それで,入籍時には彼氏の方がMの苗字に変わることで合意していた・・・筈だった.

1月,Mが妊娠した.だがいざ入籍するという段になって,彼の両親が苗字の問題に強く反対した.そして彼氏には,両親の意見を無視できるほどの大胆さはなかった.Mも,彼氏の両親も譲らず,話は拗れる一方だった.そのまま話は纏まることなく,Mは出産した.戸籍上は母子家庭となり,子供の姓はMと同じになる.

「だって,不公平やろ?何で女だけ名前を変えんとあかんのよ」

僕が日本を出る前,Mは何度か僕にそう言った.

「けど,所詮名前やん?」
「ほな健くんは,彼女が私の苗字に変えてくれって言ったら変えるんか?」
「うん,あっさり変えるよ?」
「健くんは男やしそんな簡単に言えるねん.実際そんな立場になったら分からんで」
「いや,分かる.内藤って名前に愛着がないわけじゃないけど,オレが結婚しようって思うときは,名前なんかより大事なもののためにするに決まってるからな.お前こそ,結婚とか,生まれてくる子供のことより名前の方が・・・」

その先を,僕は飲み込んだ.大事なのだ,彼女には,名前の方が.その理由を,彼女は自分で言った.

「Tとやったら,苗字なんてどうでも良かった.でもT以外の男の人とでは,出来ひんねん.名前が変わるってことは,Tと一緒にいた頃のあたしじゃなくなるってことやろ?」

それは不合理だ,という思いがまず頭に上った.Mは,息子の婿入りを認めない彼氏の両親から浴びせられるトゲのある言葉や,その両親から自分を全力で守ってくれない彼氏のために,多大なストレスを抱えていた.だがそれがTへの愛を貫くためだと言うのなら,今の自分が不幸なのはTのせいだと言っているに等しい.

だが僕に,それをどうすることが出来るというのか.

この八年のうちどれほどの時間を,MはTを思うことに費やしてきたのだろうか.それこそ,二人が付き合い始めた頃まで遡れば,Mは,Tと共に11年を過ごしてきたことになる.どんな言葉なら,そのMにとっての名前の意味に,釣り合うだけの重みを持たせることが出来るというのか.

八年前の,Tの葬式を思い出す.告別式の後,Tの実家近くの旅館に泊まった僕らは予備校時代の写真を持ち寄り,思い出話に花を咲かせていた.だがそこにMが現れたとき,僕らはTの話をすることを止めてしまったのだ.そして僕らは,Mに背を向け,それぞれ勝手に話を始めてしまった.

あのとき・・・と僕は今でも真剣に後悔している.もしもあのとき,僕らがMと一緒に泣くことが出来ていたら,Mの傷がここまで深く刻み込まれてしまわずに済んだのではないかと思う.最愛の人を失うというMの悲しみを完全に理解することは不可能でも,責めて,その傷口に手を添えてやるくらいは出来た筈なのだ.
このときの出来事が,僕らとMの間の溝を決定的にした.Tの死という同じ1つの出来事なのに,僕らはそれを共有することが出来なくなった.それはMから,僕らとTの思い出を語り合う可能性を奪ってしまったのだ.

それから八年が過ぎ,僕らはTの死をさっさとと過去の出来事にしてしまった.当時の仲間がTについて語るとき,既にそこには悲しみも寂しさもなく,ただ懐かしさだけが漂う.だが彼女にとって,Tの死は,未だに,現在なのだ.