過去ログRevival〜頑張るとか,頑張るないとか〜

彼女がメールでこんなことを書いてきた.

「がんばって」って言われて「よしっ!」って思えるときと、反対に「いらっ」ってくるときがない?鬱の患者さんに「がんばって」は禁句って言われているんやけれども、それに似ているんかな?って思った。だから、がんばってってよく使うし、使い易い言葉ではあるけれども、個人的には気をつけて使わないと…

過去の日記でそういうことを書いたなあと思ったら,何と3年以上前だった.読み返してみると,自分で思わず膝を打ちたくなるほどいいことを書いている(苦笑).なので,それらをもう一度,今の自分の言葉で書いてみることにした.

僕は「最後まで諦めずに努力すれば,必ずいいことががある」という考え方が好きではない.もちろん目標に向けて努力することが無意味だなどと言うつもりは全くない.時間と労力が有り余っている状況においては,地道な努力こそ究極の威力を発揮するからだ.ただ「何が何でも頑張るんだ」という考えには違和感を覚える.努力の先に,苦労よりも大きな喜びが見えている場合か,あるいは努力によって得られる成長それ自体から満足を得られるならば,頑張る意味がある.しかし「何のためにやってるのか分からない」ようなコトに対して,ただ「逃げたくない」「背を向けたくない」というだけの理由で頑張ろうとする人の姿は,僕の目には痛々しく映る.

「石の上にも三年」という言葉が有効なのは,本人が「石を温めたい」と思っている場合だけだ.「石なんか温めてどうすんの?」という疑問も持っている人に対しては,「さっさと降りて来ればいい」と言えばいい.努力そのもの,頑張っているコト自体を称賛する気になれない僕は,捻くれているのだろうか.

確かに「頑張れ」という言葉はよく使われる.最後まで諦めずに頑張れば,必ず何かが見えてくるとか,そんな感じだ.99%の努力だ,というエジソンの言葉も(歪曲されて)引き合いに出されたりする.だがそれは同時に,「頑張ることの出来ない人間は駄目な奴だ」という意識をも生み出してしまう.

「努力=善」「怠惰=悪」.鬱になる人はそういう価値観に捉われている傾向がある.受験勉強を頑張って乗り切った.勉強をサボっていた連中に対して優越感を感じた.しかしいざ社会に出てみれば仕事が面白くなくてやる気が出ない.だが怠け者へと「転落」するのを恐れて,頑張り続けようとする.面白くない仕事でも我慢して,耐えて頑張るのが自分のあるべき姿だと思う.手を抜くなんてのは駄目な奴のすることだからだ.

そういう厳格な価値基準を持つ人は,他人も同じ基準で自分を見ていると思ってしまう(本当は自分で自分を見ているだけだ).だから他人の評価が怖い.自分が今まで認められてきたのは頑張ってきたからこそで,頑張るのをやめたら誰も評価してくれなくなってしまうんじゃないか.でも仕事は面白くない.堪え続け,頑張り続ける日々.受験を頑張ったのは,こんなことのためだったのか?

そして頑張りきれなくなった瞬間,「私=駄目人間」というレッテルを自分で貼ってしまう.

そんなところへ「頑張れ」などと言われたら? 事態は悪化するだけである.やっぱり本当は頑張らなきゃいけないのに,頑張れない自分は駄目な人間なのだと.自己否定は益々強化される.

当たり前だが,これは精神的タフネスや強さのモンダイではない.努力と怠惰に対する善悪の基準が,時と場合によっては害にしかならないこともあるということを理解することによってしか,問題は解決しないのだ.

続きは次回.