昨夜

昨日夜中、寝る前に本を読んでいたら、雨が降り出した。窓を開けていたので、しとしとという雨の音がよく聞こえる。それがたいへん耳に心地よかった。
晴耕雨読ってわけではないけれど、東洋の思想は森の哲学だと言われる。対して、西洋哲学は砂漠の哲学だ、と。東洋には雨期があるので、その間は全く働けない。だから、部屋の中にじっと座り込んで考えている時間があった。結果、一が多であり、多を一と捉えるような、恐ろしく多面的・多層的な考え方が生まれた。仏教の空の思想や、老子の無の思想なんかがその典型だ。一方、西洋思想のルーツであるユダヤ教は、完全に砂漠の哲学だ。砂漠で右に行くか、左に行くか、そのメリットやデメリットをいちいち考えていたらあっという間に干からびて終わりだ。逆に、唯一絶対の神がいてくれれば、考えるまでもなく進むべき方向は決定される。結果、西洋は、宗教であれ、科学であれ、普遍の真理を求める方向に向かった。

科学の進歩はすさまじい。それは研究の現場においても当てはまることで、低コスト・短時間でより多くのデータを得られるシステムが次々と生み出されている。でも、それで僕らが楽になるかというと全く逆で、例えば実験の待ち時間が短くて済むようになれば、それだけ僕らは急きたてられるように只管手を動かす事態に陥ってしまう。僕らが実験データを得ているというよりは、実験データの方に僕らが動かされている感じだ。

けれども、僕らは、強制的にでも、座して多角的に考えるということをしなくてはならない。少なくとも、僕らが研究者である限りは、絶対に。