われ疑う

果たして自分の考えや言葉が,他人にとってどれほどの価値があるというのか?ソレがワタクシがいつも心に抱いておる疑いである.
昨日も書いたコトだが,ワタクシは別に特別な人間ではナイ.これはつまり,ヒトにできるコトは大抵ワタクシにだってできるだろうという意味でもあるが,むしろ大切なのは自分にしかデキナイことなんてナイに等しい,というコトである.
ワタクシは考えるのが好きだ.好きだというよりは止められないダケかもシレナイ.自分の身に起こった出来事や活字,あるいはヒトのハナシを見聞きして入ってきた情報を切欠に,イロンナコトを考える.そしてそれらの考えが言葉として上手く繋がったときはカナリ満足である.しかし同時に,コレくらいのコト既に皆考えてるんちゃうん?とっくに気付いてるんちゃうん?と思う.更には,自分が考えを構築したモトになる経験や談話なんて高が知れとんねんから,実際のトコロ全然トンチンカンな結論に陥ってしまってるんちゃうん?とさえ思う.ソレが,ワタクシの疑いなのダ.だから…
ワタクシにとって「ヒトを励ます」というのは物凄くムズカシイ.落ち込んでいるシトに対して「またいつかイイトキが来るサ,ホラ元気出しなヨ」なんつー楽観論は余りにも無責任だと思う.そのシトの状況を分かったような顔をして「ああすればいい」「こうすればいい」とカンタンに助言をするヒトは,世の中の人間全てが自分と同じ判断基準を持ってると思ってるダケだと思う.他人に自分の人生を代わりに生きてもらうコトができない以上,他人が解決策を与えられるワケがナイ.結局そのシトの問題はそのシトが自分で解決するしかナイのダ.他人である自分に何かできることがあるとすれば,そのシトが自分で考えて,行動するキッカケになるような言葉を探すくらいのモノだろう.
とはいえ,コレがムズカシクてタマラン.何か気の利いたコトを言ったツモリでも,ソレが相手にとって「そんなコトくらい分かってる」ではナンニモナラナイ.寧ろ自分がオチコム(笑…って,んなこたどーでもいい).相手が年上なら尚更迷う.フツーに考えれば,ヒトは年齢を重ねればそれだけ多くの経験を積んでいるモノだ.自分が言わんとするコトなんて,相手はとっくに考えているかもシレナイ.ヘタに知った風なコトを言えば,却って気分を害してしまう.
そんな葛藤の中から搾り出したモノが,id:moli-xiongさんの日記に書き込んだコメントだったり.ちゃんと受け止めて頂いて,ホッとした.オマケに次の日にイロイロと考えて頂いていて,とてもヨロコバシかったワタクシ.って,ああっ!ナンダカ自慢話みたいになっちゃったヨ,コレ?違うんデス,そんなツモリじゃ…

ん,んー,ごほん.気を取り直して…

moli-xiongさんは「思いやり」なんて言ってくれたけど…多分,あの言葉に何らかの力があったのだとしたら,ワタクシもワタクシなりに色んなモノを失いながら生きてきたコトを,moli-xiongも理解してくれているからだろう.実はソコに期待して,あの言葉を選んてたりする.通じるとしたら,あの言葉意外あり得ない気がしたんだヨ.
…とまあ,そんな舞台裏のハナシでした.ナンとも尻すぼみな文章になっちゃった.もう夜遅いから勘弁して.