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内藤家は典型的な没落士族だった.ワタクシの四代前,大祖父の名は内藤加賀守敬之助三十郎(かがのかみ けいのすけ さんじゅうろう)という.東京は新宿にある"新宿御苑"を知っている方は多いと思うが,彼の代まで内藤家はそこをまるまる領地に持ち,五千石の禄をもらう旗本だったらしい.それが明治維新によって無一文の素寒貧,正妻の地元である滋賀の片田舎へと,正に「都落ち」したわけである.その後曽祖父,祖父の代となっても状況は好転することなく,それどころか父が生まれてからは事態が更に悪くなる.祖父は病に倒れ,父もカリエスに罹って小学校時代の殆どを入院して過ごした.要するに病人二人を抱えながら,父の母と,姉二人の女三人が内職をして,何とかやっていったそうである.隣近所からは馬鹿にされ,屈辱的な扱いも受けていたらしい.


「世が世なら…」


そんな思いが,彼女たちの心には刻まれていたことだろう.


父は小学五年の途中から退院して学校に復帰した.カリエスのお陰で足は悪くなってしまったが,頭脳は抜群だった.家族は彼に期待した.


「勝之(父の名)があいつらを見返してくれる――」


伯母達は必死で働き,父の学費を作った.父もまた家族の期待に応えようとし,また応えつつあった.京大にトップで合格し,その後も卒業するまで他を寄せ付けない成績を残した.修士課程終了後に一旦就職したが,その後アメリカへ留学し.そこでも圧倒的に優秀だった.だが…


アメリカでのPhDプログラムを終了して三年後,ワタクシの弟が生まれて一年が過ぎようとしていた頃に,父は急性骨髄性白血病で倒れた.少年時代カリエスの治療のために受けた,放射線医療が原因だった.


その後父の闘病生活は,死ぬまでの13年間続いた.その間も祖母や伯母,そして母は交代で父の看病に当たった.要するに,父と伯母は,自分達が幼い頃から助け合って生きてきたのだ.彼らの間の絆や内藤家に対する誇りは,何にも優先するほど強かったんである.


ワタクシにしても,祖母や伯母には「育てて貰った」という恩を少なからず感じていた.物心ついた時には父は既に入退院を繰り返す身で,母が父の入院に付き添っていた時などは伯母が御飯を作ってくれた.子供心に「電車が見たい」と言えば近くの駅まで連れて行ってくれたし,一緒に買い物に行けば必ず何か買ってくれた.外で遊んでいたら転んでケガをして泣いているところを,祖母におぶられて家にまで帰ったこともよく憶えている.内藤家の長男として,という理由はあったにせよ,ワタクシは大切に育てられたのだ.


それでも――


母には幸せになる資格が十分あると思った.何より,伯母達の言うことを受け容れるということは,母にMさんを諦めさせるということだ.それだけはあり得ない選択だった.それで,母の人生は内藤家のためにあるんじゃない,と言ったのだ.


だが,伯母は黙らなかった.そしてその言葉は,ワタクシの心を打ち砕くのに十分だった.


…続く