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涙を拭いた.電話口の彼女にはもう大丈夫だと言って,しばらく冗談交じりに話してから電話を切った.わざわざ決別を宣言する必要もなかったからだ.


さて,ではこれからの自分の将来をどうしようか,と思いながらあたりを見回して,苦笑した.父や,死んだ友人が,写真の中で笑っている.主のいなくなった犬小屋もそのまま残っていた.要するに,失われた過去を思い出させるものばかりだ.


まずはここを出るしかないな――


休学して,しばらく旅にでも出ればいいだろうか.一瞬そう思ったが,もっといい方法が,自分にはあった.


アメリカに行けばいい――


確かにワタクシは一度断ったが,自分の所属している研究室にしてみれば,アメリカとの共同研究は実現させたい話だった.アメリカの研究室は優秀なポスドクに豊富な資金を有している.競合しても勝ち目がなかったのだ.自分の同僚には外へ出たがる人間はいない.やっぱり行かせて欲しいと,もう一度言うだけでよかった.
ここを離れて全く新しい環境に行けば意識から過去の出来事をかなり断ち切ることが出来るだろうし,なにより,研究者として専門的な知識と技術を身に付け,最先端の世界を肌で感じるには持ってこいだ.
そう考えながら,実験が上手く行って結果が出たときの感覚を思い出す.そこには,誰にも共有してもらえない代わりに,自分だけの歓喜と興奮があった.
そう,誰のためでもない.研究そのものは,ワタクシはただ自分のため,自分の満足のためにやってきたのだ.


茨城でやってきた研究はどうしようか――


先の二年間で出したデータではまだ中途半端だった.仕上げるには,もう少し実験を重ねる必要がある.そう,もう少しで,何らかの形に残せる.それを放り出していきなりアメリカに行こうとするのは,非合理だった.


計画は,決まった.


6〜9月の三ヶ月間,茨城に戻ってここでの研究を仕上げる.それから京都に戻ってアメリカ行きの準備を始めれば,冬には渡米できるだろう.


「二年間お世話になりました」と言って出てきた研究所へまたすぐに出戻りというのはカッコ悪い気がしたが,そんなことはどうでもいい.他人にどう思われようが,それが自分にとっていちばん望ましい道だった.


…続く