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そんなことを考えながら,荷物をまとめ,茨城に入った.失くした過去のことから自由になれたわけではなかったが,それでも実家にいるときよりは遙かにましだった.少なくとも,夜に眠ることが出来た.


しばらくして,群馬県にある研究機関の施設も使わせてもらえることになった.茨城では放射性物質から照射される,比較的エネルギーの低い放射線しか使えなかったのだが,群馬の研究機関には巨大な加速器を使った,非常にエネルギーの高い放射線を使える.これで得られたデータを加えれば,実験としてもっと面白くなる.


しかし,茨城の研究所から群馬の研究所までは片道で150キロあった.おまけにワタクシが放射線を照射したい対象は花粉である.照射前に雄しべ以外の部分を除去する必要があった.さらに実験材料として使っている植物の花は直径1センチほどしかない.ピンセットで花びら,ガクそして雌しべを取り除くのは相当に神経を使う作業だった.が,折角の機会を逃す手はない.群馬の施設が使える日には午前3時頃に実験植物を車に積み込んで出発し,夜明け頃に到着してから50個ほどの花をピンセットで処理していく.午前10時頃に担当の人に処理した雄しべを手渡し,照射が終わったら,今度は受粉作業だ.ピンセットで雄しべをつまんで,雌しべの柱頭に一つずつ花粉をこすりつけていく.終わったら,再び植物を車に積み込み,150キロの道のりを引き返す.そんなことを月に2,3回はやらなければならなかった.
もちろんやるべきことはそれだけじゃない.茨城での実験もいつも通りに進め,論文も書き始めなければならなかった.要するに毎日非常に疲れたのだが,それが良かった.嫌でも眠くなった.腹も減って仕方がない.コンビニのオニギリでさえ美味いと思えた.ラッセルの文章を思い出した.皮肉たっぷりの文章だが,大いに的を射ていると思われたのだ.

世の中の厭世主義者には,毎日起きてから朝食前の一時間程の間に,穴掘りなどの肉体労働でもさせるといい.そうすれば,朝食は美味となり,その日は一日中,世の中のことが全て空虚であると思う余地はなくなるだろう.


…続く