7 法家思想と秦

紀元前350年頃,秦の始皇帝から遡ること約百年,一人の法家が秦の国に仕官を求めた.名は商鞅(しょうおう).商鞅を非常に気に入られ,イキナリ丞相(総理大臣ミタイなモン)に抜擢され,政治を全面的に任されるコトになった.
コレには秦の貴族たちは驚く.ヨソモノがイキナリ王の信頼を得て国政を任されるわけだから,代々秦に仕えてきた彼らは面白くナイ.自分たちが無能と言われてるのと同じコトだから.とはいえ王に逆らうワケにもいかず,ヒトマズ商鞅のお手並みを拝見してやろーということになる.
自分が周りに嫌われているコトくらいは商鞅も充分ワカッている.貴族たちは反感を持っているし,一般民衆だって商鞅なんてゆーオトコなんて知らナイわけで、商鞅が改革をやろうとしても素直に命令に従うとは思えナイ.で,商鞅はまず自分を売り込むコトにした.
秦の都には市場がある.当時の市場は塀で囲われていて,門がいくつかついていた.市場は民衆が集まるトコロってコトで,政府の命令とか国民への「お触れ」なんかはこの市場の門の前に掲示されたのネ.
商鞅はこの市場の南門に材木を一本立て,「この材木を市場の北門に移した者に金十斤与える.丞相商鞅」と触書を出した.みんなこの御触書を読んでワイワイ噂をするんだけど,ナンだか怪しい.商鞅という男もどんな大臣だかワカラナイ.ヘタなコトして罰せられてはタマランと,誰も材木を移さナイ.何日か経っても誰も動かさなかったので,商鞅は賞金を5倍の五十斤にした.大体17kgっすヨ.
そしたら,よーやく一人の男が材木を北門に動かした.早速彼は商鞅に呼ばれ,約束どーり金五十斤を与えられた.そしてアッという間に商鞅の評判は広まる.商鞅は,自分が出した法は必ず実行される,ということを示すことに成功したワケだ.民衆に信用されてしまったら,貴族達も黙るしかナイ.

そして彼はどんどん改革を進めた.マズは国民を五軒、十軒毎に隣組を組ませ,納税や防犯の連帯責任を取らせた.その中のどこかの家が犯罪者をかくまったりしたら隣組全体が罰せられる,という仕組み.税金を納めたり兵士や人夫を出したり,とにかく政府との関係で連帯責任を持たされるワケ.
さらに農家の分家を強制的にやらせた.当時秦の国では大家族制.一つの家の中に結婚して子供もいる兄弟たちが同居してたワケ.コレじゃ生産力の無駄だからと,次男坊以下は強制的に分家させ,未開の土地に入植させた.その結果,耕地は拡大,戸数も増加,国家収入もウナギノボリ.

とはいえ,商鞅の改革は伝統的な農民の生き方を無理矢理変えるモンだから,抵抗もあった.ある時田舎の長老たちが商鞅のところに面会に来て,政治が厳しすぎる,もっと優しくしてくれと訴えた.で,商鞅はどうしたか.一般民衆の分際で支配者に文句を言うとはけしからん、と言って全員処刑.彼のやり方はキビシかったんである.
ところが商鞅の政治が軌道に乗ってくると,治安も安定して盗賊はいなくなる.道に財布が落ちていても恐れて誰も拾わナイ.そしたら,今度は別の田舎の長老たちが商鞅に面会に来た.今度は「商鞅様のおかげで安心して暮らせるようになった,有り難や」と商鞅を誉め称えに来たのだったが,商鞅は今度も全員処刑にしてしまう.庶民の分際で,政治を誉めるとは身の程を知らぬ,とゆーのがその理由.要するに商鞅は国民が政府を批評すること自体を許さなかったワケ.黙って支配されておるベシ.いや,キビシイ.

軍功による爵位制というのもやる.戦争の時に活躍した分だけ身分を上げる.爵位をくれてやる.活躍というのは敵の首をいくつ取ってきたかとゆーことで,たくさん殺したら身分が上がる.逆に先祖代々の貴族でも,敵の首を取ってこなければ爵位はナシ.

これらの改革によって西方辺境の三流国だった秦は一躍戦国時代の主導権を握る大国に成長したんである.


後に商鞅は失脚して処刑されるが,彼の法は残った.そして始皇帝の時代,若い頃に荀子(id:KEN_NAITO:20050506)の教えを受けた法家,李斯を丞相に採用して,どんどん国力を増大していき,最後には中国統一を果たしてしまったのでした.


明日は「老子道教」ですナ.ヲタノシミニ.