8 道家思想:荘子


当たり前だけど道家の思想は役に立たナイ.そしてそんな批判は,荘子が生きていた時代からあった.あるトコロにドデカい木があって,道がそこで曲がってる.邪魔なので伐ってしまいたいけど,固すぎて切れナイ.また節くれ立っているモンだから,伐採したトコロで材木としても使えナイ.荘子サン,アンタの学問もソンナモンでしょ,とかネ.

が,荘子はこう言い返す.そんな木があったら,夏のカンカン照りの暑い盛りに,その大木の下の木陰で昼寝でもしたらキモチイイじゃナイってサ.この辺の考え方が「無用の用」.善悪や美醜なんて偏った判断基準から離れれば,ドンナモノにも何かイイトコロがあるってコトが見えてくるぜってなカンジ.いやーホッコリするね.

そんな荘子の思想の,代表的なモノが「万物斉同・絶対無差別」.チョット詳しく見てみるべ.


私は自分の存在を忘れていた.喜怒哀楽,不安,嘆き,慕い,恐れ…感情の変化は,次々に目の前に現れてくる.しかし,もし相手がなければ自分とういうものもなく,自分がなければ色々な心も現れようがない.

一旦,人としての形を受けたからには,それを変えることなく,そのままにして生命の尽きるのを待とう.外界の事物に逆らって傷つけ合えば,その一生は早馬のように過ぎ去ってしまう.

「あれ」でない物は存在せず,「これ」でない物もまた存在しない.「こちら」からすれば「あれ」,「あちら」からすれば「これ」,というだけのことだ.善を為すことはそのまま不善をなすことであり,不善をなすことは善をなすことである.なぜなら,善し悪しは相対的なものだからだ.聖人はそんな方法によらず,それを自然に照らして委ねる.そしてひたすらそこに身を任せる.これが,「あれ」と「これ」との対立を越えた絶対の境地である.

猿たちに餌を与えるのに「朝三つにして夕方四つにしよう」と言ったところ,猿たちは怒った.「朝四つにして夕方三つにしよう」と言ったところ,猿たちは悦んだ。このように,あれこれと精神を疲れさせながら同じことを繰り返し,それが同じだということに気が付かない.

最高の境地とは,物などないと考える無の境地である.次の境地は,物はあると考えても,そこに境界を設けない物我一如の立場である.第三の境地は,境界はあると考えるても,そこに善悪の判断を設けない等価値観の立場である.善悪の判断をはっきりさせることは,真実の道が破壊される原因である.道が破壊されることは,愛憎の生まれる原因である.

事物の始まりを辿れば限りないが,現実世界では,にわかに有無の対立が生まれる.しかしその有無の対立は,相対的なものである.だから,どちらが有でどちらが無だか分からない.

どんな美人でも,魚,鳥,動物はその美人を見れば逃げ出す.一体何が世界中の本当の美を知っていることになるのか.私の目から見ると,世間での仁義のあり方,善し悪しの道筋は雑然と混乱している.その区別をわきまえることができない.

これらの当てにならない判断,中身のうつろいやすい声に期待するのは,はじめから期待をかけないのと同じ,無意味なことだ.天倪(てんげい−自然の平衡)で全てを調和させ,絶え間ない変化に任せていくのが,天寿を全うする方法である.善し悪しの対立を根本的に越えるものこそ,自然の平衡ですべてを調和させるということである.こうして,無限の境地で自由に活動することになる.全てを,この対立のない無限の境地におくのだ.

荘周(荘子のこと)は蝶になった夢を見た.一体,荘周が蝶となった夢を見たのだろうか.それとも,蝶が荘周となった夢を見ているのだろうか…


くぅ〜っ.染みる!!あらゆる存在を否定するよーな,ヘタすりゃニヒリズムにでも陥りそうなのに,何でこんなに癒されるんですかねえ? 荘子,明日も続けるヨ♪